斯波義淳
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斯波 義淳(しば よしあつ、応永4年(1397年) - 永享5年12月1日(1434年1月11日))は、室町時代中期の管領。守護大名。斯波義重の子。斯波義郷の兄。官位は従五位下。尾張守。越前守。治部大輔。左衛門佐。左兵衛佐。子は斯波義豊。
斯波義将の孫に当たる。応永16年(1409年)8月、幼少であるにも関わらずに管領に任じられた。これは祖父の意向があったと思われる。現に祖父が死去した直後の翌年6月には管領職を辞任させられている。
足利義持、足利義量に仕えて尾張・越前の守護となる。正長元年(1428年)には遠江の守護にもなり、飛騨国内などにおいても新たに所領を与えられた。永享元年(1429年)8月24日からは新将軍となった足利義教より管領に再任された。永享2年(1430年)9月、管領辞任を求めたが許されず、永享4年(1432年)10月10日に辞任することを許された。翌年11月、義淳が重病となると、義教は僧籍に入っていた弟を還俗させ(斯波義郷)家督を相続させた。義淳は12月1日に死去した。享年37。法名は心照寺殿道忠淑良。
斯波 義淳は、戦国時代の人物。斯波氏の当主として当時の文書に名が見える。斯波義達の後、斯波義統の前に登場する人物である。