成城中学校・高等学校
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成城中学校・高等学校 | |
創立年月日 | 1885年(明治18年)1月15日 |
創立者 | 日高藤吉郎 |
理事長 | 東郷尚武 |
学校長 | 福居敏夫 |
国公私立の別 | 私立学校 |
共学・別学 | 男子校 |
設置学科 | 全日制普通科 |
校訓 | 自学自習 敬愛親和 自治自律 質実剛健 |
所在地・連絡先など | |
所在地 | 〒162-8670 東京都新宿区原町3-87 |
最寄り駅 | 都営大江戸線牛込柳町駅 から徒歩1分 |
電話番号 | 03-3341-6141 |
公式サイト | http://www.seijogakko.ed.jp/ |
成城中学校・高等学校(せいじょうちゅうがっこう・こうとうがっこう、創立者日高藤吉郎)は、東京都にある私立男子中高一貫校。100年以上の歴史と伝統を有する。
目次 |
[編集] 概要
- 戦前は陸軍士官学校への予備校としてその名を博した。また、同様のポジションにあった学校としては、海軍兵学校への予備校であった攻玉社や海城が挙げられる。
- 都心の真ん中、新宿区原町にありながら、土のグラウンドを有する。他にも、3万冊以上の蔵書を抱える図書館、50台ものコンピューターを備えたマルチメディア教室、柔道場、剣道場、テニスコート、温水プールなどを完備しており、クラブ活動も活発。
- 「成城」という名は、詩経大雅篇にある、「哲夫成城」」に由来する。「哲夫」とは智徳のすぐれた男子のことであり、哲士、哲彦ともいう。 成城の城は国を指し、国を成すの意。すなわち、知達の士は国家を興隆させる者であることをいったもの。校章の三光星は「知・仁・勇」を表す。
- 成城学園との関係は、下記参照。9代校長の澤柳政太郎が成城学校内に付設した、成城小学校が成城学園の起源。これが現在の世田谷区に移転し、成城学園として分離独立した。ゆえに現在は、成城学園とは別個の学校である(成城大学は成城学園の大学であり、成城高校は成城大学の附属高校ではない)。
[編集] 沿革
- 1885年(明治18年)1月15日 文武講習館として中央区築地に創立され、軍人志望の少年の養成にあたる。
- 1886年(明治19年)8月 成城学校と改称し、幼年科、青年科を設置。陸軍士官学校・陸軍幼年学校への予備教育を施す。
- 1891年(明治24年)9月 宮内省(のちの宮内庁)より現在の牛込原町の校地を下賜され、移転す。
- 1917年(大正06年)1月 私立成城中学校と改称。
- 1918年(大正07年)7月 日本で初めての林間学校を長野県中房温泉で開設。
- 1922年(大正11年)4月 成城第二中学校併設。
- 1925年(大正14年)7月 日本で初めての臨海学校を神奈川県逗子市初声村に開設。
- 1929年(昭和04年)4月 第二中学校は世田谷区に移転し、成城学園となる。
- 1948年(昭和23年)4月 成城中学校・高等学校と改称。
- 1955年(昭和30年)4月 牛込成城幼稚園を併設。
- 1986年(昭和60年)1月 創立100年を迎える。
[編集] 有名歴代校長
- 川上操六(4代 陸軍大将 参謀総長)
- 児玉源太郎(7代 陸軍大将 日露戦争の英雄)
- 澤柳政太郎(9代 文部次官 東北帝国大学初代総長 京都帝国大学総長 成城学園創立者)
- 児玉秀雄(10代 児玉源太郎長男 拓務大臣 逓信大臣 国務大臣 文部大臣)
[編集] 有名卒業生
[編集] 軍人
- 久邇宮邦彦王(元帥、香淳皇后の父)
- 宇垣一成(陸軍大将、陸軍大臣)
- 鈴木孝雄(陸軍大将、軍事参議官、靖国神社宮司、偕行社会長、鈴木貫太郎の弟)
- 金谷範三(陸軍大将)
- 南次郎(陸軍大将、陸軍大臣、朝鮮総督)
- 菱刈隆(陸軍大将、関東軍司令官(昭和5年.6~)兼満州国大使、軍事参議官)
- 林仙之(陸軍大将)
- 松井石根(陸軍大将)
- 緒方勝一(陸軍大将)
- 松木直亮(陸軍大将)
- 塚田攻(陸軍大将)
- 小沢治三郎(海軍中将、日本海軍最後の連合艦隊司令長官)
- 秦真次(陸軍大将)
- 寺内寿一(元帥、陸軍大将、寺内正毅の長男)
- 山田乙三(陸軍大将、関東軍司令官(昭和19年.7~))
- 蓮沼蕃(陸軍大将)
- 乃木勝典(乃木希典長男)
- 乃木保典(乃木希典次男)
[編集] 清国からの留学生
- 呉玉章
- 陶成章
- 彭湃(中国共産党初期の農民運動指導者)
[編集] 俳優
[編集] その他
- 西郷四郎 (講道館四天王の一人 姿三四郎のモデル)
- 佐藤可士和 (グラフィックデザイナー アートディレクター)
- 佐々木慎 (将棋)
- 山本博愛 (プロ野球選手(1937春-秋 イーグルス))
- 横山 健 (元Hi-STANDARDボーカル)
- 芦野宏 (シャンソン歌手)、
- 羽左間正雄 (フリーアナウンサー)
[編集] 成城学園との関係
(以下の記述は、校史『成城学校百年』に基づく)
- 1916年、澤柳政太郎が、成城学校の9代校長に就任したが、その就任の条件として、小学校を付設させることを挙げた。その翌年の1917年、成城学校内に、成城小学校が新たに付設され、新教育の実験校となった。
- 以来、親たちより、中学以降も小学校と同様の教育をして欲しいという熱心な希望があり、1923年、成城小学校の卒業生が進学する、成城第二中学校が開校した。
- さらにその卒業生の進学すべき高等学校の問題が出てきた。また、将来の生徒増を考えると、教室、敷地も狭くなるため、東京府郊外へ新校地を求めていた。そして、関東大震災を契機に、府下北多摩郡砧村喜多見(現世田谷区成城)で、それが実現することとなった。
- 1925年、成城第二中学校が移転し、これに伴い、成城玉川小学校が併設された。1926年、7年制の成城高等学校が創設開校され、成城第二中学校は法規上自然廃校となり、高等学校の尋常科として、包括された。
- 1929年、砧村の成城小学校、成城第二中学校は、正式に成城学校の財団とは分離独立した。