忠惠王 (高麗王)
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忠惠王(ちゅうけいおう、1309年 - 1344年)は28代高麗王(在位 1330年-1332年、復位1339年-1344年)。名は禎。モンゴル名は普塔失里(ブタジリ)。廟号は孝宗。忠肅王と明徳太后の間に生まれた。后は 元国関西王焦八の娘 德寧公主、尹継宗の娘 禧妃尹氏、洪鐸の娘 和妃洪氏、商人林信の娘 銀川翁主林氏。
1328年より王世子として禿魯花(人質)。1330年に忠肅王の伝位により帰国、高麗王に冊封され即位。1339年忠肅王の死去後、復位。度重なる失政と乱行によって国政が乱れ、激怒した元の宮廷から召喚される途中で死去したという。
高麗史によれば、荒淫狂暴と記されている。例えば、先王 忠肅王の妃 慶華公主を酒に酔って、暴行、手篭めにした等と記されている。以下は高麗史第89卷 列傳2 后妃 慶華公主からの引用である。
- 慶華公主伯顔忽都蒙古女 王在元娶之後二年與王來五年開府 曰慶華置官屬. 王薨忠惠再宴公主于永安宮公主亦邀忠惠宴及酒罷忠惠佯醉不出暮入公主臥內公主驚起忠惠使宋明理輩扶之使不動且掩其口遂蒸焉. 翌日公主恥之欲還于元使買馬忠惠命李儼尹繼宗等禁馬市不得賣馬元使頭麟等來進御酒于公主執忠惠以歸. 公主囚贊成事鄭天起于征東省仍命金之謙權征東省金資提調都僉議使司. 忠惠五年薨葬以禮恭愍十六年元贈謚肅恭徽寧公主.
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