女装クラブ
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女装クラブ(じょそう- )は、女装したい男性(以下「女装者」と称す)のために衣装の販売・レンタルや化粧を行ったり、女装者同士や女装者に興味を持つ男性の交流場を提供することを目的とするクラブのこと。多くの場合女装用品を保管するためのロッカー等のレンタルも行っている。
なお女装クラブには大きく分けて
- 女装グッズの販売や女装者同士の交流のみを目的とするもの(エリザベス会館等)
- 女装者と女装者に興味のある男性の交流を目的とするもの
の2種類があり、特に前者では性的なサービス等は一切行われないのが普通である。
[編集] 背景
日本においては、女性が男装することは社会的に認知されているのに対し、男性が女装することに対しては否定的な見解を持つ者が多く、特に男性が女装した状態で外出することについては変質者扱いされ、警察の職務質問の対象となったりすることが多いほか、コスプレ系イベントでも「男性の女装はお断り」としているイベントが少なくない。このため、女装者同士や女装に興味のある男性が実際に会って交流を持つことは(特にパソコン通信・インターネットの普及以前は)極めて難しかった。
また同様の理由から、男性が単独で小売店の店頭で女性用の衣装(特に下着類)や女性用化粧品を購入することは難しい、女性向けのメイク技術を習得する場がないなど、女装者特有の困難な問題がいくつも存在する。
さらに家族と同居している男性の場合、仮に何らかの方法で女装用品を揃えたとしても、多くの場合自らの女装趣味を家族に打ち明けることが困難であることから(仮にそれが家族に知られた場合、女装用品を処分されるだけでなく、最悪の場合離婚や勘当等に発展する可能性すらある)、自宅以外に女装用品を保管しておく場所を確保する必要があるが、個人でそのような場所を確保することは多くの場合コスト面で難しい。
このような問題の存在に対し、完全ではないまでも一定の解決策を提供することを目指したのが女装クラブである。
[編集] 歴史
女装クラブの走りは、1955年に発足した「演劇研究会」という名のアマチュア女装サークルであると言われる(1958年に解散)。1959年には「演劇研究会」の残党が中心となり「富貴クラブ」という秘密クラブが結成されるが、同クラブでは会員向けに「会員の部屋」と呼ばれる女装の支度用の部屋を用意しており、これが現在に至る女装クラブの原型になったのではないかと見られる。なお「富貴クラブ」は1970年代に自然消滅したと言われているが、現存する資料がほとんどなく詳細は不明である。
富貴クラブの若手女性会員の述懐 部屋は、JR東中野駅から山手通りをくだり大久保通りを中野方面にあるいて5分ほどのマンションにありました。 玄関を入ると中央に12畳ほどのリビングがあり、ソファやテレビ、雑誌などがあり会員はここでくつろいだり、女性会員のメイクがすむまで待っている場所でした。 化粧部屋は、リビング右側の4畳半の部屋で、鏡や化粧道具、会員の衣装など山のように置かれていました。女性会員(当然女装者です)は、この部屋で着替えやメイクをして男性会員のいるリビングに出るようになっていました。 その奥に左側に4畳半ほどの部屋があり、鏡張りの背の低いふすまが布団の横に立てかけられており、この部屋で男女?二人の 楽しいひと時を過ごすことができました。しかし、ふすま一枚隔てただけで会員が集まっているリビングあるため興奮したものです。その隣に6畳の和室がありここは会話を楽しんだり、冬にはコタツでいろいろ楽しんだものでした。 玄関左側にトイレ、その横ベランダ側にキッチン、その奥がお風呂という部屋構成で、女性会員は到着するとまずトイレで用を済ませお尻の中をいろいろな方法できれいにし(ご想像に任せます)、お風呂で体の除毛を行い、体を洗って下着に着替え、化粧部屋に入り支度をしました。 会員はレベルが高く、プライバシーはしっかりと守られ、本名は誰も知らず本当に楽しいクラブでした。
1979年には女性用下着の卸売りをしていたアント商事が東京都内に「エリザベス会館」を開設。現在は名古屋・大阪にも店舗を構える(なお運営母体の企業はそれぞれ異なる)。エリザベスは1984年に女装者の交流の場として雑誌「くいーん」を創刊するなど(2003年に休刊)、現在に至るまで日本の女装クラブの中心的存在となっている。
これから派生した女装同好会組織として、渋谷・スタジオサファイアや、新宿のチェンジなどがあり、また、女性がオーナーを務める店舗として、大阪・Switchや横浜・アルテミスなどが存在する。