大聖寺藩
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大聖寺藩(だいしょうじはん)は、江戸時代に加賀国江沼郡にあり、江沼郡及び能美郡の一部を領した藩。加賀藩の支藩であり、石高は初め7万石、後に10万石となった。家紋は棒梅鉢。
[編集] 歴史
江戸時代の当初は、加賀藩の城代が大聖寺城で江沼郡を支配したが、元和元年(1615年)の一国一城令で廃城となり、この役職は郡奉行に改められた。
寛永16年(1639年)、加賀藩の第2代藩主・前田利常が隠居する際、次男・利次に富山10万石を、三男利治に大聖寺7万石を割いて、富山藩と大聖寺藩が立藩された。大聖寺藩の版図は江沼郡の大半133村(6万5700石余り)と、越中国新川郡の内9村(4300石余り)であったが、万治3年(1660年)に領地交換で江沼郡全域と能美郡6村となった。
3代藩主・利直は、弟の利昌に新田1万石を割いて大聖寺新田藩を立藩させたが、この藩は利昌が大和柳本藩主・織田秀親を刺殺するという乱行に及んだために切腹を命じられ、宝永6年(1709年)に取り潰しとなり、領地は大聖寺藩に復した。
8代藩主・利孝(としやす)は、文政4年(1821年)に7万石から10万石への高直しを行った。差の3万石は新田開発が1万石。加賀藩からの支援が2万俵(加賀藩の1俵は5斗であり、2万俵は1万石に相当。1万石の米は領地20,000石に相当)で捻出した。12代藩主・利義は、安政2年(1855年)に没したが、その死の公表前に養子の利行も没したため、利行の死を秘匿し利行の13代襲封のお墨付きは名代として、富山藩藩主・前田利聲と七日市藩藩主・前田利豁が受け、利行の隠居願いを加賀藩主・前田斉泰が幕府に願い出て14代藩主は利鬯が継いだ。
[編集] 歴代藩主
- 利治(としはる)
- 利明(としあき)
- 利直(としなお)
- 利章(としあきら)
- 利道(としみち)
- 利精(としあき)
- 利物(としたね)
- 利考(としやす)
- 利之(としこれ)
- 利極(としなか)
- 利平(としひら)
- 利義(としのり)
- 利行(としみち)
- 利鬯(としか)