売茶翁
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売茶翁(ばいさおう,1675年(延宝3年) - 1763年(宝暦13年))は、江戸時代の黄檗宗の僧。本名は柴山元昭、幼名は菊泉。還俗後は、高遊外とも称した。
肥前蓮池道畹(佐賀県佐賀市)の生まれ。蓮池の領主鍋島家に仕える御殿医であった父、柴山杢之進と、母、みやの三男として生まれる。
11歳で出家し、肥前の龍津寺の化霖禅師について禅を学ぶ。法名は月海。
13歳で、師とともに宇治の黄檗山萬福寺を訪れ、師の師である独湛禅師から偈を与えられる。これは、月海が年少であっても異才のあることを、独湛が見抜いたためであるという。
22歳の時、痢病を患ったことで、発憤して陸奥に遊方し、その後、諸方の善知識のもとを訪れた。ある時は、湛堂律師に律を学んだ。また筑紫では、雷山の峰で苦行に励んだ。その後、肥前の師のもとに戻り、14年間にわたって、師に仕えた。
57歳のとき、師の化霖が遷化すると、突如、龍津寺を法弟の大潮に任せ、京都に上洛する。
61歳で、東山に通仙亭を開き、また自ら茶道具を担い、都の方々で席を設けて客を待つという、煎茶を売る生活を始める。「仏弟子の世に居るや、その命の正邪は心に在り。事跡には在らず。そも、袈裟の仏徳を誇って、世人の喜捨を煩わせるのは、私の持する志とは異なっているのだ」と述べ、売茶の生活に入ったという。
70歳の時、10年に一度帰郷するという法度によって故国に戻り、自ら還俗を乞い、国人の許しを得る。そこで自ら高氏を称し、号を遊外とする。
以後、87歳で蓮華王院の南にある幻々庵で逝去するまで、「売茶翁」として、貧苦の中、煎茶を売り続ける。
1755年(宝暦5年)、81歳になった売茶翁は、愛用の茶道具を焼却してしまう。この時、「私の死後、世間の俗物の手に渡り辱められたら、お前たちは私を恨むだろう。だから火葬にしてやろう」という文章を、この時に残す。この頃の高遊外は、腰痛に悩まされ、高齢のせいもあり、死期の近づいたことを感じていた模様である。
親交の深かった相国寺第113世 大典顕常によって『売茶翁伝』が書かれ『売茶翁偈語』の巻頭となっている。後世の『近世畸人傳』巻2にも伝がある。
親交のあった伊藤若冲が描いた肖像がのこるが、広い額に、やや縮れた白髪を蓄えた、痩せた老人の姿で描かれている。萬福寺にも木彫の座像がある。池大雅や与謝蕪村など文人画家たちの多くが翁の画像を描いている。
遊外の茶は、当時の禅僧の在り方への反発から、真実の禅を実践したものであったと言われる。当時の禅を含む仏教は、1671年(寛文11年)に制度化された寺檀制度によって、お布施という安定した収入源により、安逸に流れつつあった。宗教者として真摯であればあるほど現状に不満がつのり、それが、俗世間の目からすれば奇矯な行動に出たという面が考え得る。
また、当時の僧の素養として、抹茶の心得があったにもかかわらず、形式化した茶道に対して厳しい批判精神を持ったために、茶本来の精神に立ち返るための煎茶へ傾斜したとも言われる。