堀尾忠晴
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堀尾 忠晴(ほりお ただはる、1599年(慶長4年) - 1633年10月26日(寛永10年9月24日))は、江戸時代の外様大名。堀尾忠氏の子で、堀尾吉晴の孫。出雲松江藩第3代藩主。正室は徳川秀忠の養女(奥平家昌の娘)。官位は従四位下、山城守。幼名は三之介。
1604年、父の忠氏が早世したため、幼くして後を継いだ。しかし政治を取り仕切れるような年齢ではなかったため、祖父の吉晴が忠晴に代わって執政を行なった。このとき伯母(吉晴の長女、名前は不明)と一族で老職の堀尾河内守親子による家督横領の陰謀が発覚し、河内守と掃部の父子は流罪のうえ切腹を申し付けられている。後の仙石騒動にも似た事件であり、有力外様大名家の内紛とあって改易されてもおかしくなかったが、吉晴が健在であったためか難を逃れている。
1611年、祖父が死去すると親政を開始する。忠晴との名乗りをあげたのはこの時のことである(それ以前の諱は不明)。藩主としてこれといった治績は伝わっていない。大坂の陣では武功を立てたほか、軍令違反を咎めた徳川家の軍奉行を器量で圧倒して黙らせるというエピソードを残している。「仏の茂助」「鬼茂助」と言われた祖父の2つの顔を共に受け継ぐ名君・名将、どちらかといえば武の人であったようだ。その男らしさを幕府からも信頼されたか、1619年、福島正則が幕命によって信州川中島に減転封されたとき、広島城の城受け取りを務めている。
1633年、死去。死因は酒害と推測される。正室・側妾いずれとの間にも嗣子が無く、従兄弟の堀尾宗十郎(父親はおそらく堀尾氏泰であろう)を末期養子に立てることを希望したが認められず、ここに堀尾宗家は断絶した。一族のうち、堀尾但馬や吉晴の弟堀尾氏光の子堀尾氏晴などが松江松平家に仕えた。肥後細川家にも堀尾茂助(四代目)が仕えている。また、エッセイストの旭陽瑞穂は母方が石川憲之の末裔(石川憲之の母が堀尾忠晴の娘)なので、傍系ながら堀尾宗家の子孫と言うことになる。墓所:東京都文京区千駄木の円成寺。養源寺。島根県松江市の円成寺。
なお、江戸初期の書物「寧固斎談叢」では前田利常との恋愛関係が取りざたされている。
- 松江藩3代(堀尾氏)藩主
- 1604~1633
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- 先代:
- 堀尾忠氏
- 次代:
- 京極忠高