坪内逍遥
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坪内逍遥(つぼうち しょうよう、「逍遥」は現代における通行表記で、歴史的に正確な表記は「逍遙」、男性、安政6年5月22日(1859年6月22日) - 1935年2月28日)は、明治時代に活躍した日本文学の小説家、評論家、翻訳家、劇作家。美濃国加茂郡太田宿(現岐阜県美濃加茂市)出身。本名は坪内雄蔵。別号に「春のやおぼろ」、「春のや主人」など。
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[編集] 概説
父は尾張藩太田代官所の手代をつとめていたが、のちに一家で名古屋へ移住した。 旧制愛知県立第一中学校(現・愛知県立旭丘高等学校)、旧制第一高等学校を経て東京帝国大学文学部英文学科卒業。文学士。東京専門学校に赴任し、のちに早稲田大学教授。
26歳のときの評論『小説神髄』によって、小説はまず人情を描くべきで世態風俗の描写がこれに次ぐと論じた。この心理的写実主義によって日本の近代文学の誕生に大きく貢献した。また、その理論は小説『当世書生気質』によって実践された。しかし逍遙自身がそれまでの戯作文学の影響から脱しきれておらず、これらの近代文学観が不完全なものに終っていることが、後に二葉亭四迷の『小説総論』『浮雲』によって批判的に示された。
小説のほか戯曲も書き、演劇の近代化に果たした役割も大きい。歌舞伎のための新作(新歌舞伎)『桐一葉』『沓手鳥孤城落月』『お夏狂乱』を書いた。また、1906年、島村抱月らと文芸協会を開設し、新劇運動の先駆けとなった。雑誌『早稲田文学』の成立にも貢献した。
妻センは東大の近くにあった根津遊廓の大八幡楼の娼妓・花紫で、学生であった逍遙が数年間通いつめ、1886年に結婚した。これをテーマにした松本清張『文豪』がある。二人には子がなく、逍遙は兄義衛の三男、元宝塚歌劇団職員で演劇評論家の坪内士行を養子とした。士行の妻は宝塚歌劇団1期生の雲井浪子、その子は女優・坪内ミキ子。
早稲田大学の演劇博物館は、逍遙のシェイクスピア全訳の偉業を記念して建設されたものである。
[編集] 作品
- 評論
- 1885年(明治18年)小説神髄
- 小説
- 1885年(明治18年)当世書生気質
- 1889年(明治22年)細君
- 戯曲
- 桐一葉
- 牧の方
- 役の行者
- 翻訳
- シェイクスピア全集を翻訳したことが知られている。