土佐勤王党
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土佐勤王党(とさきんのうとう)は、幕末の土佐藩に存在した政治組織。土佐勤皇党と表記される場合もある。
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[編集] 誕生
文久元年(1861年)、当時江戸にいた武市半平太によって結成される。血盟書はその直後に武市自身の手により土佐に持ち帰られ、最終的には200人余の参加者を集めることになる。その構成は下級武士や郷士・農民などを主としていた。なお、この中には坂本龍馬もいたが武市と考えが合わず、途中で辞めてしまった。
当時の土佐勤王党にとって有利だったのは、吉田東洋の改革路線に対して、それを不満に思う保守派層が存在したことである。土佐勤王党は過激な尊王攘夷の思想を掲げており、本来ならば正反対の立場にあるはずだったが、吉田東洋に対抗するという目的の下で協力関係が樹立される。そして、文久2年4月8日(1862年5月6日)、東洋を暗殺したことにより、土佐勤王党は土佐藩の実権を握る。
同年8月、藩主山内豊範を奉じて入京する。この頃が土佐勤王党の最盛期と言って良いだろう。
[編集] 土佐勤王党の思想
この時期の他の藩の尊王攘夷運動と比較して土佐勤王党が特異であるのは、「一藩勤王」、つまりは個々人の志士が攘夷を唱えるに留まらず、藩全体をあげて勤王を行おうという思想である。他の藩の多くの志士は藩士と言うよりはむしろ個人で動くことが多かったのに対し、土佐勤王党は、あくまで土佐藩の内部から活動することに拘り続けたと言える(後に弾圧を受けた際、多くの志士が脱藩する中で武市は従容として投獄されたという)。
[編集] 没落、そして消滅
京都において、土佐勤王党は一時的に尊王攘夷運動の中心となり、各藩との交渉や朝廷工作を行う一方、本間精一郎などの暗殺を行ったが、八月十八日の政変以降、京都で尊王攘夷派に代わって公武合体派が強くなると、土佐藩主山内容堂は弾圧を行う。武市は投獄され、拷問は受けなかったが他の志士達が拷問を受け遂に自白し武市は切腹となる。
この武市の死により、事実土佐勤王党は解散した。
[編集] 土佐勤王党の参加者
以下には、途中で脱退・除名した者も含む。武市以外は五十音順で配列している。
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