内藤忠重
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内藤 忠重(ないとう ただしげ、1586年(天正14年)-1653年5月20日(承応2年4月23日))は、志摩国鳥羽藩の初代藩主。内藤忠政の長男。官位は従五位下。伊賀守。志摩守。
徳川氏に仕えて関ヶ原の戦い、大坂の陣で戦功を挙げ、徳川家光の教育係にもなった。所領は常陸国内に1万5000石を与えられていたが、これらの功績を評価されて1633年に鳥羽2万石に加増移封されたのである。藩政においては鳥羽城の大改築や舟の整備などを行なったが、これが原因で深刻な財政難が起こった。ところがこれに対して忠重は年貢を八公二民にするなどのとんでもない重税を強いた上、寺の領地を召し上げたり、新田に徴税を課すなど、最悪の悪政を行なった。1653年4月23日、68歳で死去し、後を子の内藤忠政(忠種)が継いだ。
彼の最悪な統治により、鳥羽藩の財政事情はその後、滅茶苦茶になったと言われている。