修道士
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修道士(しゅうどうし)というキリスト教用語には二つの意味がある。
- 修道誓願を立て禁欲的な信仰生活をする人、ことに男性のこと。女性の場合は「修道女」という。西方教会では修道会に所属し、誓願と会の規則にしたがって生活する人々のこと。カトリック教会では修道者ともいい、聖公会では修士と呼ばれる。修道会制度を持たない東方教会では、修道誓願をたてた人のこと。以下ではこちらについて詳述する。
- 上記のカトリックの修道者の中、および東方教会で修道誓願した者の中で、助祭(輔祭)叙階・司祭叙階を受けないもののこと。男性の場合は「ブラザー」と呼ばれる。女性は助祭や司祭にならないため、基本的にこの範疇に入り、「シスター」と呼ばれる。カトリックでは修道会の中で司祭会員、修道士会員という名称で区別されることがある。
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[編集] 歴史
修道士は、修道誓願を行い、禁欲的な修道生活を送る人々のことである。西方教会ではさらに修道会に所属し、その規則にしたがうことが求められる。東方教会でも多く修道院に籍をおき、院長や掌院の指導に従う。その起源は3世紀のエジプトにさかのぼる。当時のエジプトでは熱心な男性キリスト教徒たちが世俗を離れて砂漠で孤独な生活を送る習慣が生まれた。彼らは隠遁者などと呼ばれたが、これが修道士の原型となった。アントニウスなる人物がしばしばこの生活の創始者であるとされる。個人で生活していた隠遁者たちだが、徐々に信心業を集まっておこなうようになっていった。その中からさらに信心業だけでなく全生活を共におこなうようになるグループが生まれていった。ここから修道院の原型ともいうべきものが生まれた。この生活はローマ帝国の東方に広まっていった。
6世紀、ヌルシアのベネディクトゥスは東方でおこなわれていた修道生活を西方に持ち込み、モンテ・カッシーノに修道院を開いた。ベネディクトゥスは修道生活の規定を成分化した『会則』を記したことで知られ、修道院長のもとに修道者たちが『会則』にしたがって生活するというスタイルは以降の修道生活における規範となった。ベネディクトゥスに大きな影響を受けていたスコラスチカという女性はベネディクトゥスの『会則』にしたがって女子修道院を開いている。以後、西方の修道生活は修道会によって組織化されていくが、これに対し東方では修道士が修道院に自発的につどって生活するなかで修道がなされるというゆるい連帯が維持された。
以後の歴史の中で、さまざまな修道会が生まれ、消えていった。11世紀に東西教会が分裂した後も、修道生活は東方・西方の両教会において独自の形で保持されていった。中世になると大修道院の院長は世俗領主のような影響力を持つに至った。宗教改革の時代になると、改革者の間でこのような修道生活に対する批判が強まり、キリスト教の本来的な姿とは無関係なものとみなされた。プロテスタント運動の盛んな地域では修道院が破壊され、修道生活はみられなくなった。のちにフランス革命やロシア革命でも、修道院は旧体制の一部とみなされ、多くが破壊された。この破壊にはしばしば、修道院の財産の政府による没収が伴った。聖公会は教義的な理由でカトリック教会とたもとをわかったわけではなかったので修道生活が保持された。宗教改革期以降もカトリック教会は修道生活に特別な意味を認め、現在に至っている。
[編集] カトリック教会の修道者
カトリック教会では、修道者になるためには一定のプロセスが求められる。修道会に入ることを希望するものはポストランと呼ばれる試しの期間を持ち、修道院で生活する。そこで適性があると認められると会員になるための研修期間というべき修練期を送る。修練期を終えると初めて誓願をたてることが許され、修道会に完全に受け入れられる。
また、カトリック教会における修道者の身分は信徒使徒職であるが、男性修道者の中で叙階を受けるものは「修道士会員」と区別して「司祭会員」と呼ばれたり、「教区司祭」と区別して「修道司祭」と呼ばれることがある。
第2ヴァティカン公会議以前、男子修道会では司祭会員と修道士会員の間には厳然たる区別があった。修道士会員は司祭会員よりも一段低くみられ、門番や炊事、畑仕事や庭仕事などに従事するというのが一般的であったが、現在ではそのような区別はなくなっている。
[編集] 東方正教会の修道士
東方正教会の場合、主教職に叙聖されるには修道士であることが求められる。
[編集] 聖公会の修士
修士(しゅうし)とはキリスト教の教派の一つである聖公会の用語で修道士を指し、修道会は修士会といわれる。同様に修道女は修女と呼ぶ。日本の修女会は現在ナザレ修女会(東京都)と神愛修女会(和歌山県)の二つのみである。 また過去には日本にも聖ヨハネ修士会、聖使修士会などの修士会があったが、解散して現存しない。