伊達宗時
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伊達宗時(だてむねとき、元和元年(1615年) - 承応2年(1653年)は江戸時代の武将。伊達秀宗の次男で世子。母は秀宗の正室井伊氏(井伊直政の娘)。官位は従五位下、左京亮。
元和8年(1622年) 兄の宗実とともに将軍徳川秀忠に拝謁し、のち寛永4年(1627年) 宗実が病弱を理由に嫡を辞して廃嫡された為、同9年(1632年)世子となり従五位下左京亮に叙任された。同15年、1638年、祖父政宗が幕府に宇和島藩の改易願いを出すという和霊騒動の衝撃のためか中風になり、病床に臥す事が多くなっていた父秀宗に代わり宇和島に入り、実質的な藩主として政務をとった。このとき秀宗はすでに死んだもの、隠居したものとして扱われたようで、幕府も家臣も宗時のお国入りを『当主となり帰国』と認識しており「大武鑑」など一部史料では藩主の列に数えられている。寛永20年(1643年)には仙台藩に乞うて家臣を貰い受けるなどしており、実際に当主として活動していた。しかしながら井伊家の短命の血が出たか、承応2年(1653年)39歳で父に先立った為、実際の二代当主は異母弟の宗利が襲封した。墓地は金剛山大隆寺にある。
[編集] 系譜
同母妹二人が存在