丁卯胡乱
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丁卯胡乱(ていぼううろん、ていぼうこらん)とは、1627年に後金のホンタイジ(太宗)が李氏朝鮮に侵攻した戦いである。この戦いに続いて1636年に丙子胡乱が起こっている。
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[編集] 背景
李氏朝鮮は、1619年のサルホの戦いで1万人の援軍を明に送ったが、李氏朝鮮の将軍であった姜弘立は後金のヌルハチに降伏した。姜弘立は、李氏朝鮮は後金に対して戦う意志は無く、明の強制的な要請によって援軍を送ったのだと弁明したが、ヌルハチもヌルハチの子であったダイシャンも朝鮮への侵攻には興味を持っておらず、後金の朝鮮への非侵攻はヌルハチの死まで続くこととなる。
李氏朝鮮では、西人派のクーデターにより、1623年、光海君に代わって仁祖が即位した。西人派は、反後金親明的な政策を取り、また明の機動部隊司令官であった毛文龍が朝鮮半島にてゲリラ的な戦闘を行うようになった。
最初の後金による侵攻のきっかけは、1624年の李适の仁祖に対する反乱事件による。この反乱はすぐ鎮圧されたが、後金に逃げ込んだ反逆者の一部が、ホンタイジに李氏朝鮮を攻めるよう進言した。
[編集] 戦争
1627年、ホンタイジ(太宗)はアミン(阿敏)、ジラガラン(済爾哈朗)、アジゲ(阿済格)、ショト(碩託)を姜弘立ら朝鮮人の同行の下、李氏朝鮮に送った。李氏朝鮮軍は後金軍に対し、何の防御の準備もしておらず、日本との文禄・慶長の役による被害からの復興もまだまだであった。後金軍は、李氏朝鮮の領土内に侵攻していき、また毛文龍の軍も破ったが、毛文龍を捕らえることは出来なかった。後金軍が漢城にまで到達した時、仁祖は混乱し江華島に逃亡した。
こうした後金の優位な状況にも関わらず、後金は和平交渉を押し付けてきた。これは多分、ホンタイジ(太宗)が自国の防衛が手薄になることを気にかけていたと考えられる。後金は和解を申し入れ、反後金派による反対もあったが、この和議はすぐに李氏朝鮮に受け入れられた。
以下の声明は、江華島で合意された内容である。
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- 李氏朝鮮は明の年号「天啓」を使わないこと。
- 李氏朝鮮は李氏朝鮮の王子の代わりに、Yi Gakを人質として差し出すこと。
- 後金と李氏朝鮮は、今後互いの領土を侵害しないこと。
この間、ホンタイジ(太宗)がアミン(阿敏)に和議の署名を行うよう命令を下す前に、アミン(阿敏)は平壌で数日間略奪を行っている。この和議は後金にとって良い内容であり、4ヶ月の侵攻の後、後金軍は瀋陽に撤退した。
[編集] 戦後
戦後の交渉は、双方の国で進められた。後金は、明との長期の争いにより経済的に困難な状況にあり、李氏朝鮮に対し国境付近に市場を開くことを命じた。同様に、李氏朝鮮はワルカ部の女真を後金に返した。後金は、李氏朝鮮に対して定期的に貢物を要求した。
後金と李氏朝鮮の関係は、良い関係であったとは言えない。丁卯胡乱は李氏朝鮮にとって、9年後の丙子胡乱ほど壊滅的なものではなかったが、文禄・慶長の役で支援をしてくれた明を無碍にすることは李氏朝鮮にとって裏切り行為であると、儒学者や儒教派の政治家によって強く非難された。
この苛立ちは、1636年にホンタイジが皇帝に即位したことを認めることを要求してきた際に、噴出することとなる。この時、反後金派で占められていた朝鮮議会は、この要求を断り、これが1636年の丙子胡乱を引き起こすことになる。