ロバート・ピール
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ロバート・ピール(Sir Robert Peel, 2nd Baronet, 1788年2月5日 - 1850年7月2日)は、英国・トーリー党の政治家、首相(第1次内閣1834年~1835年、第2次内閣1841年~1846年)。
ウェリントン公アーサー・ウェルズリー(ウェリントン)政権下で、審査律廃止(1828年)、旧教徒解放令(1829年)の成立に努力する。また、世界で初めてパトロール警官の制度を考案実施。イギリスの制服警官は彼に因み“ボビー” “ピーラー”の愛称で呼ばれる。
その後、グレイ内閣(1830-34)のホイッグ政権下では、トーリーを率いて選挙法改正に反対した。
1834年にウェリントン公とともに組閣し政権を担当する。32年の第一次選挙法改正法案の成立を経て、産業資本家が議会に進出すると、保守党が生き残るためにはこの選挙権拡大を含めて政治改革を認めることが必要だと考え、1834年の総選挙では、自分の選挙区タムワースの公約として有権者に向けた書簡「タムワーム・マニフェスト」(”The Tamworth Manifesto”)を発表した。「タムワース・マニフェスト」は、翌年の選挙で保守党の方針として正式に採択され、リベラル・トーリー、ひいてはその後の保守党の方針の拠り所となったと考えられている。
1835年に辞任するが、1841年に第二次ピール保守内閣を組閣すると財政改革を行い、3年の期限付きで所得税を再導入し、その増収で関税引き下げを行った。この頃からトーリー党は保守党となる。
第一次選挙法改正で、産業資本家が議会に進出、1839年にコブデン(Richard Cobden, 1804-65)やブライト(John Bright, 1811-89)が反穀物法同盟を結成し、穀物法廃止運動は激化していった。この激化を踏まえて、1845年のアイルランド飢饉をきっかけとして、ピールは穀物法の撤廃を提唱し、所属する保守党の保護貿易論と衝突するが、46年にそのまま穀物法廃止に踏み切った。
その後、この穀物法廃止を批判するベンジャミン・ディズレーリと対立し、保護貿易論を支持する保守党のほとんどがディズレーリを支持したため、1846年に退陣を余儀なくされた。
だが退陣後もホイッグのラッセル内閣の自由貿易を支持しつづけ、ディズレーリにとっては邪魔な存在でありつづけた。
1850年に、落馬が原因で死去。
[編集] 関連項目
- イギリスの首相
- 1841-1846
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- 先代:
- メルボルン子爵ウィリアム・ラム
- 次代:
- ジョン・ラッセル