ニザームルムルク
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ニザームルムルク(نظام الملك، ابو علي الحسن الطوسي,Nizam al-Mulk、1017年-1092年)は、セルジューク朝の政治家・宰相であり、学者でもある人物である。
ホラーサーン地方のトゥースで、地主の息子として生まれた(生年には1018年説もある)。ニザーム・アル・ムルクとは「王国の秩序」の意味。
セルジューク朝の第2代スルタン・アルプ・アルスラーンや第3代スルタン・マリク・シャーに傅役(アタベク)として、また宰相として仕え、彼らを良く補佐した。ニザームは政治手腕に優れ、宗教政策や教育政策に尽力する。特に1067年には彼の名にちなんで、バグダッドにニザーミーヤ学院を設立する。1074年には天文台を、さらにウマル・ハイヤームに命じてジャラーリー暦という新暦(太陽暦)を作らせた。こうしてセルジューク朝はマリクとニザームの両人体制がうまく機能したこともあって、遊牧国家の面影を残す国から整備された帝国となり、最大版図を実現し全盛期を迎えることとなったのである。
政治家としてだけではなく、文化人としても一級者であり、『政治の書』を記している。また、1063年から1092年までの30年間、2代のスルタンにわたって厚い信任を受けて重用されたことから、『名宰相』と称された。
しかし1092年、マリクの妃に些細なことから恨みを買って暗殺されてしまった。一説によればこれはシーア派過激派のニザール派(暗殺教団)によるもので、彼がスンナ派の権威回復に努めシーア派を弾圧したことへの報復とも言われる。
彼の死後、セルジューク朝は混乱し、やがて世継ぎ争いの戦争続きで十字軍にも満足に対応できなくなるほど弱体化する。