ジョン・ブル (作曲家)
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ジョン・ブル(John Bull, 1562年または1563年 - 1628年3月12日)は、16世紀末~17世紀初頭のイングランドの作曲家でオルガン建造家。著名な鍵盤楽器のヴィルトゥオーソで、作品のほとんどが鍵盤楽器のために作曲されている。
[編集] 生涯
おそらくウェールズの出身。1573年にヘレフォード大聖堂の聖歌隊に加わり、翌年からロンドンの王室礼拝堂の少年聖歌隊員となる。同地でウィリアム・ブリズマンやウィリアム・ハンニスに師事。また、この頃から鍵盤楽器の演奏を学び始める。
1586年にオックスフォード大学より学位を取得し、王室礼拝堂のジェントルマンに任命される。1591年には王室礼拝堂オルガニストに就任した。翌年にオックスフォード大学より博士号を取得、1596年にはエリザベス1世のお墨付きでグレシャム・カレッジの音楽科教授に着任する。同女王の死後は、ジェイムズ1世に仕官。この間に独力で、卓越した作曲家や鍵盤楽器奏者(とりわけ即興演奏家)として名声を博した。
しかしながら、鍵盤楽器の演奏家兼作曲家としての超絶技巧のかたわらで、とかく悶着を引き起こしがちであった。未婚女性を妊娠させてしまってグレシャム・カレッジにいられなくなり、肩書きを失った後に結婚資格を得たものの、二度と大学に戻ることはなかった。しかも、以前に譲渡された家屋の所有権を取り戻そうとするなどの珍事件により、不法侵入で訴えられ、その所業は聖室庁での訴訟に持ち込まれたが、その顚末については不明である。
1613年、ブルはひそかにイギリスを脱出し、不義密通の咎に対する、カンタベリー大司教とジェイムズ1世による断罪から大急ぎで逃れようとした。ネーデルランド駐在のイングランド大使が、はじめはブルを匿おうとしたが、後に自らの立場を憂慮して、1614年にジェームズ1世に釈明状を書き送っている。
その前年にカンタベリー大司教はブルについてこのように述べている。「くだんの人物は正直者というよりも音楽家なのであって、オルガンやヴァージナルへの指使いで名を揚げたように、生娘を疵物にすることでも名うての人物だ。」
ブルはネーデルラントにとどまり、心置きなく過ごしていたようだ。1615年にアントウェルペン大聖堂により次席オルガニストに、1617年には首席オルガニストに任命される。ブルはネーデルラント滞在中に、アントウェルペン市長宛ての1通も含む一連の手紙を書き送っており、自分は信仰上の迫害を逃れてイングランドを出国した、なぜなら自分はローマ・カトリックだからである、と訴えている。ブルは一度もイングランドに引き返さなかったために、信仰上の亡命者と信用されていたようだ。同地に滞在中に、当時最も影響力のあった鍵盤楽曲の作曲家、ヤン・ピーテルスゾーン・スウェーリンクに出会った。
1620年代にはオルガニストやオルガン建造家(オルガン建造相談人)として活動を続けた。アントウェルペンにて他界。
[編集] 作品
ブルは、オランダのスウェーリンクやイタリアのジローラモ・フレスコバルディを別にすれば、17世紀では最も有名な鍵盤楽器の作曲家だった。ヴァージナルのために多くの作品を遺しており、そのいくつかはフィッツウィリアム・ヴァージナル・ブックに収録されている。ブルは鍵盤楽曲に加えて、ヴァース・アンセムやカノンなども作曲した。
ブルの作品の多くは、イギリス脱出の際に紛失し、中には処分されたり、他人によって盗作されたものもあるが、そのように誤って他人の作とされた作品は、今日では様式的観点によって訂正することが可能になってきた。
最初の出版されたブルの曲集は、《パーセニア、または処女性 Parthenia, or the Maydenhead 》と題され(1612年もしくは1613年刊行)、当時ブルに師事していた15歳のエリザベス王女に献呈された。このタイトルは、批評や笑いを取ろうとしたものかどうかは不明だが、ブルの過去や性格からすれば、それはありえない話ではない(訳注:Maydenheadという英単語は処女膜の暗喩でもある)。エリザベス王女とプファルツ選帝侯フリードリヒとの婚礼の際には、アンセム《父なる神よ、子なる神よ God the father, God the son 》1613年も作曲した。
当時としては類を見ない、120曲からなる《カノン集》は、ヨハネス・オケゲムやバッハにも匹敵する、驚くべき対位法の粋が示されている。そのうち116曲は、グレゴリオ聖歌の《ミゼレーレ(われを憐れみたまえ)》を定旋律とする。単純な旋律を変形するのに用いられた技法は、音価の拡大・縮小、逆行形、拍子記号の混用などである(その対位法様式は、後にリヒャルト・シュトラウスのオペラでもとりあげられている)。
《フィッツウィリアム・ヴァージナル・ブック》に収録された数曲は、もっと軽い性格と奇抜な題名(たとえば《ブルの「おやすみ」"Bull's Good-Night." 》、《交戦と休戦 "A Battle and No Battle" 》、《ラムジーのボニー・ペグ "Bonny Peg of Ramsey," 》)をそなえている。