ジョゼ・アルタフィーニ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
|
ジョゼ・ジョアン・アルタフィーニ(José João Altafini、1938年7月24日 - )は、ブラジル出身で後にイタリア国籍を取得したサッカー選手。セリエA史上3位タイの通算216ゴールを挙げたストライカー。
目次 |
[編集] クラブでの活躍
パルメイラスなどブラジルのクラブを経て、1958年にACミランへと移籍。9月21日にセリエAデビューを果たすと、10月5日のASバーリ戦で初ゴールを挙げた。1958/59シーズンは32試合28得点でリーグ優勝に貢献。1961/62シーズンにも33試合22得点で、再びACミランの優勝に貢献した。
1962/63シーズンのUEFAチャンピオンズカップでは、9試合で14ゴールの大活躍でイタリア勢初のチャンピオンズカップ獲得の原動力となった。2-1で勝利した決勝のベンフィカ戦でも同点と逆転の2ゴールを挙げている。
1965年から1972年まではナポリに在籍。皮肉なことに1972年コッパ・イタリア決勝では、前所属クラブのACミランに2-0で敗れた。
1973年に移籍したユヴェントスでは、1973年コッパ・イタリア決勝でまたしてもACミランに敗れる。しかしここでは1973/74および1974/75シーズンの2回のリーグ優勝を経験した。
1976年にユヴェントスを退団するまでに、アルタフィーニはセリエAで通算459試合に出場して216ゴールを挙げた。そのゴールの多くはキャリアの前半に挙げたものであり、初期の8シーズンでは134ゴールを挙げたが、後期の8シーズンでは53得点にとどまる。
イタリアから離れてスイスのキアッソとメンドリジョ・スターで4シーズンプレイした後、42歳で引退した。
[編集] 代表での活躍
1960年代以前の国際サッカー界には現在のような厳密な規定がなく、複数国の代表チームでプレイする選手が多く存在した。ブラジル出身のアルタフィーニもその一人で、ブラジル代表とイタリア代表の二ヶ国の代表選手としてFIFAワールドカップに出場した。
ブラジルでの彼は「マッゾーラ」の愛称で呼ばれた。これはトリノで活躍したイタリアの名FWバレンティーノ・マッツォーラに因んだものである。 1958年W杯でブラジル代表として優勝を経験したが、大会の後半ではババにポジションを奪われて出場できなかった。
イタリア代表としては1961年10月15日のイスラエル代表戦でデビューして、この試合でゴールも挙げている。1962年W杯にも出場したがグループリーグで敗退した。
[編集] 所属クラブ
- アトレチコ・ピラシカーバ(ブラジル)1948-1954
- アトレチコ・サンパウロ(ブラジル)1954-1956
- パルメイラス(ブラジル)1956-1958
- ACミラン(イタリア)1958-1965
- ナポリ(イタリア)1965-1972
- ユヴェントス(イタリア)1972-1976
- FCキアッソ(スイス)1976-1979
- メンドリジョ・スター(スイス)1979-1980
[編集] 代表歴
- ブラジル代表
- 1958年 FIFAワールドカップ(優勝、3試合2得点)
- イタリア代表
- 1962年 FIFAワールドカップ(グループリーグ敗退、2試合0得点)
カテゴリ: ブラジルのサッカー選手 | イタリアのサッカー選手 | パルメイラスの選手 | ACミランの選手 | ナポリの選手 | ユヴェントスの選手 | 1938年生