エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン
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『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン』(Ellery Queen's Mystery Magazine、以下EQMM)は、1941年にアメリカ合衆国で創刊された月刊ミステリー小説誌。誌名は、ミステリー作家であり初代編集長でもあるエラリー・クイーンに由来する。フランス、カナダ、ポルトガル、オーストラリア、スウェーデン、日本などで各国版の『EQMM』が発行された。
当時のパルプマガジンには犯罪小説を扱うものがあったが、もっと上質のミステリー小説に市場を提供するために、エラリー・クイーンが自ら編集長となって『EQMM』を創刊した。エラリー・クイーンはフレデリック・ダネイとマンフレッド・リーの共同ペンネームだが、実際に編集長を務めたのはフレデリック・ダネイである。ダネイの死後は、エレノア・サリヴァンが編集長を引き継いだ。
『EQMM』は編集水準の高さから、1950年代から1970年代の短編小説の減少期間を生き抜いた数少ない小説誌のひとつである。『EQMM』は現存するミステリー小説誌のなかで最も長く続いている。また、『EQMM』は新人作家の育成に力を入れてきた。今日では主要な出版物は著作権代理人を通した投稿しか受け付けないが、『EQMM』の初作品部門はアマチュアからの郵送による投稿を受け付けている。初作品部門は数百人の新人作家を紹介してきた。その多くが常連投稿者になった。
新人作家に加えて、有名作家の短編小説もよく掲載する。例えば、ディック・フランシス、マイケル・ギルバート、ピーター・ラヴゼイ、ルース・レンデル、レックス・スタウト、ヤンウィレム・ヴァン・デ・ウェテリンクなど。また、新旧問わず一般にミステリー作家と思われていない作家の作品を掲載している。例えば、A・A・ミルン、スティーヴン・キング、サマセット・モーム、P・G・ウッドハウス、ジョイス・キャロル・オーツ、シオドア・スタージョン、フィリス・ディラーなど。
いつもシリーズものに大きく頼っている。例えば、アイザック・アジモフの「黒後家蜘蛛の会」、ジョン・モーティマーの「弁護士ランポール」、ジェイムズ・パウエルの「Ganelon」など。シリーズ作家の筆頭エドワード・D・ホックは、1962年以来『EQMM』に10以上のシリーズを発表している。さらに、ホックは1973年5月号から毎号1つ以上の書き下ろし作品を発表し、2004年5月号に31年目を迎えた。この期間にホックは『EQMM』の姉妹誌『アルフレッド・ヒッチコック・マガジン』にも約50作品を発表した。
1976年6月号に初の日本人作家の作品として松本清張の『地方紙を買う女』が掲載された。ただし、英訳にあたって伏線を含む数ヵ所が削除されたため、評価の中には「結末が唐突だ」というものがあった。
[編集] 日本版
1956年6月に早川書房から日本版『エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン』(1956年7月号)が創刊された。初代編集長は都筑道夫。勝呂忠による装丁が1957年度MWA美術賞を受賞。1959年7月号(第37号)に結城昌治の『寒中水泳』(同誌の第1回短編コンテスト第1位入選作)を掲載するまでは、海外作品ばかりを掲載した。その後も、日本人作家の作品はたまに載る程度で、ほとんどが海外作品である。その代わり、1959年から翌年にかけて4冊を刊行した「別冊クイーンズマガジン」(1959年秋号、1960年冬号、春号、夏号)には日本人作家の作品を多数掲載した。1966年1月号から『ハヤカワ・ミステリマガジン』に改名。1977年に本国版『EQMM』との特約関係が解消されたが、以降も海外作品を中心とした誌面作りを続けている。2006年に創刊50周年を迎える。
日本版『EQMM』は、1977年末に光文社から隔月刊誌『EQ』(1978年1月号)として復活した。創刊号にはフレデリック・ダネイと松本清張の対談が掲載された。『ハヤカワ・ミステリマガジン』と同様に海外作品を中心にした雑誌だった。1999年7月号(第130号)をもって休刊。同年6月号の「休刊のお知らせ」では、本国版『EQMM』に訳載不可の作品が増えたことを、休刊の理由に挙げている。
[編集] 外部リンク
カテゴリ: アメリカ合衆国の雑誌 | ミステリ