エウゲニウス4世 (ローマ教皇)
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エウゲニウス4世(Eugenius IV 1383年 - 1447年2月23日、在位1431年 - 1447年) はバーゼル公会議の際のローマ教皇である。
ヴェネツィアの裕福な商人の家に生まれる。本名はガブリエッロ・コンドゥルマーロ。教皇グレゴリウス12世は叔父にあたる。
コロンナ家(前教皇マルティヌス5世の一族)と対立してローマを追われ(1434年)、フィレンツェ等に移るが、1443年ローマに帰還する。ローマ大学(サピエンツァ)の再建(1431年)、ラテラノ宮殿の改修や城壁、橋の修復などローマの都市復興にも努めた。
1431年、スイスのバーゼルで公会議が開催される(前教皇の際に決まっていたもの。教皇は出席せず代理を派遣?)。ここでは教皇側と公会議主義者の主張が対立したが、折りしも東方教会との合同会議の機運が起こり、1437年、エウゲニウスはイタリアのフェラーラへ公会議を移す。これに反対する公会議主義者らはフランス・ドイツの支持を受け、バーゼルに留まり、1439年にサヴォイ公アメデーオ8世を教皇に選出した(対立教皇・フェリクス5世。1449年公会議解散により廃位)。
フェラーラにコンスタンチノープル、アレクサンドリア、エルサレムなど東方正教会側も集まったが、疫病の流行などがあり、1439年にメディチ家(コジモ)の支援を受け、公会議をフィレンツェに移した。ここで合同の公会議が行われ、東西教会の合同、教皇首位説が決議され1445年に閉会した。(フィレンツェ公会議)
(ただし、メディチ家がスフォルツァ家と結んだことで、激怒した教皇は1443年以降、教皇庁でのメディチ家の特権を取り消したという)
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