U-31
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U-31(ゆーさんじゅういち、あんだーさーてぃーわん)は、綱本将也原作・吉原基貴作画のサッカー漫画。
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[編集] 概要
2002年春から2004年秋にかけて、週刊モーニングに不定期連載されていた。ちなみに作品の題名は、原作者によれば「ゆーさんじゅういち」と読むのが正しいそうだが、連載中には公式な読みが明らかにされていなかったため、版元の単行本リスト等では「あんだーさーてぃーわん」と読むことになっている。
作品の主な舞台となる「ジェム市原」は、その名の通りジェフユナイテッド市原・千葉がモデルであり、描写がリアルでありサポーターのツボを突くストーリー展開だとして当時一部のサッカーファンの間で話題を呼んだ。また原作者の綱本は2ちゃんねらーでもあり、漫画の随所にちりばめられたネタの中には、匿名掲示板2ちゃんねるの国内サッカー板・ジェフ市原スレの利用者しか理解できないものも多数存在した。
2004年秋に突如連載が打ち切りとなるが、その後ジェフ市原のサポーターサイトの一つ「イヌゲノム」において、作者へのスペシャルインタビューと幻の原作が公開された。
また2005年6月より2006年7月まで、サッカー専門紙「EL GOLAZO」において、小説版が週1回(水曜日)連載の形で連載された。
2006年6月、週刊モーニングに読み切りの「特別篇」が掲載された。
注意 : 以降に、作品の結末など核心部分が記述されています。
[編集] ストーリー
1996年のアトランタオリンピックで日本代表のFWとして活躍、その後Jリーグの東京ヴィクトリーのMFとしてレギュラーを守ってきた主人公の河野敦彦。しかし往年の輝きは失せ、2002年W杯で世間が盛り上がる中、チームから事実上の戦力外通告を受ける。そこへ舞い込んだのが古巣であるジェム市原からのオファー。5年ぶりに古巣に戻った河野は一から体を作り直しレギュラー奪取、そして日本代表への復帰を目指す。
[編集] 主な登場人物
- 河野敦彦
- 戸澤敏行
- ジェム市原の若手エース格。背番号6。ポジションはボランチ。一度は捨てるように去ったチームに復帰した河野と初めは対立するが、プレイを通して徐々に通じ合っていく。後にドイツ・ブンデスリーガのヘルタ・ベルリンに移籍する。2006年W杯ドイツ大会日本代表(背番号6)。モデルは阿部勇樹。
- 山咲佳奈
- 週刊フットボールマガジンの女性記者でジェム市原担当。配属当初は素人同然だったが、河野との交流を通じて一人前の記者に成長し、また河野とは恋仲となる。2005年に河野を題材としたノンフィクション「U-31」を著す。
- 笠原隆輔
- ジェム市原のベテランDF(背番号2)。河野とは前在籍時代から仲が良い。2005年末に現役を引退、ジェム市原のコーチとなる。モデルは中西永輔。
- アイルトン・シウバ
- ブラジル人MF。アトランタオリンピックで河野と対戦した。2002年、大陸間王者決定戦でFCマドリーの一員として来日した際に河野と再会。2006年W杯での再開を誓い合い、後にそれを果たすことになる。モデルはセルジオ・コンセイソン。
- シニーシャ・クラリィ
- 2003年よりジェムの指揮を取るセルビア・モンテネグロ出身の若手監督(就任時38歳)。河野の埋もれていた才能を見抜き、開花させた。その哲学者然とした語り口など、イビチャ・オシムをモデルにしている。
- 藤堂涼介
- 河野とアトランタ五輪の日本代表でチームメートだったFW。横浜フィールダースから1996年にセリエAのウディネーゼへ移籍、以後ポルトガルリーグやセリエBのチームを転々とする。2003年にはセリエBのヴェローナでリーグ得点王となり、同年秋に名古屋グランパレスに移籍(背番号35)。強靭な肉体を武器に、日本代表の得点源としても活躍する。しかしその肉体はドーピングで「造られた」ものだった。2005年5月、ジェム市原×名古屋グランパレスの試合終了間際に疲労性の心不全(実際には薬物の影響)で倒れそのまま死去。享年30。
- アーシア・ナニーニ
- 小説版に登場。藤堂に薬物を提供するALE製薬の研究員。藤堂の恋人を装って同行し、肉体を管理していたが、徐々に藤堂に心を惹かれるようになり、後に彼の子を宿す。
[編集] 外部リンク
カテゴリ: 漫画作品 ゆ | 週刊モーニング | サッカー漫画 | ジェフユナイテッド市原・千葉