黒田秀雄
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黒田秀雄(くろだ ひでお、明治45年(1912年)7月11日 - 昭和54年(1979年)1月22日は、昭和期の海軍軍人、海軍機関兵曹長、海軍少尉。正八位、勲七等青色桐葉章、勲六等瑞宝章。石川県生まれ、後に今の京都府舞鶴市に移住。
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[編集] 年譜
- 1912年(明治45年)7月11日- 石川県金沢市生まれ。父・黑田仁太郎 兄:秀之
- 1930年(昭和5年)6月1日- 呉海兵団に志願入団。海軍四等機関兵(後の海軍二等機関兵)となる
- 1931年(昭和6年)10月26日- 海軍工機学校第五十二期練習生入校(普通科機関術掌機)
- 1932年(昭和7年)5月12日- 海軍工機学校教程修業、普通科特技章授与
- 5月13日- 帰団
- 9月26日- 第十七潜水隊に転勤
- 9月27日- 伊号第五十二号潜水艦に乗組
- 11月1日- 海軍一等機関兵(後の海軍機関兵長)に昇進
- 1933年(昭和8年)6月1日- 普通善行章一線付与(計一線)
- 1935年(昭和10年)5月15日- 呉海兵団に転勤
- 1936年(昭和11年)2月10日- 退院帰団
- 8月5日- 舞鶴海軍防備隊に転勤
- 10月1日- 普通善行章一線付与(計二線)
- 11月1日- 任 海軍二等機関兵曹(後の海軍一等機関兵曹)
- 1938年(昭和13年)5月17日- 二等駆逐艦「刈萱」乗組
- 1939年(昭和14年)3月1日- 現在の京都府舞鶴市に戸籍移転
- 1940年(昭和15年)4月29日- 叙 勲七等青色桐葉章及び金四百円(注1)下賜
- 1941年(昭和16年)4月20日- 舞鶴海軍航空隊附
- 1942年(昭和17年)10月1日- 普通善行章一線付与(計四線)
- 11月1日- 勅令により海軍上等機関兵曹と呼称変更
- 1943年(昭和18年)4月12日- 特設砲艦大・第一雲洋丸乗組
- 4月13日- 横須賀第一海兵団に仮入団
- 1944年(昭和19年)3月13日- 舞鶴海兵団入団
- 1945年(昭和20年)9月5日- 任 海軍少尉
- 9月6日- 叙 正八位
- 9月6日- 解員
- 1979年(昭和54年)1月22日- 死去 享年66
[編集] 人物像
兵から叩き上げの軍人であり、勤勉かつ謹厳な人物で、常に向上心を忘れなかったという。山型の善行章四線は通称「洗濯板」と呼ばれ、下士官兵の畏敬の対象とされた。海軍工機学校の猛勉強を活かし、実戦では猛烈に働き、また鬼教官として厳しくも的確な指導をしたという。解員後はエンジニアとしてのキャリアを活かして民間企業で働いた。また、六人の子供と沢山の孫に恵まれ、死去するまで彼の近くに住んでおり、幸福な人生を送った。尚、妻は2004年まで存命で、88歳で大往生を遂げた。
[編集] 逸話
下士官としては比較的優秀であったので、自分に厳しいのは勿論、家族にも大変厳しかったらしく、碁盤の取り合いで喧嘩をしていた子供達の前で、「この様な物があるから喧嘩をするのだ」と言って、鉈で叩き割ったという。また、軍隊の調子で妻にあれこれと命令するので、「家は海軍じゃないんですよ」とたしなめられた一面を持つ。