黒板勝美
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黒板 勝美(くろいた かつみ、明治7年(1874年)9月3日-昭和21年(1946年)12月21日)は、日本の歴史学者。東京帝国大学教授。文学博士。専門は、日本古代史、日本古文書学。号は虚心。
明治7年9月3日、士族黒板要平の長男として、長崎県彼杵郡下波佐見村(現在の長崎県東彼杵郡波佐見町)に生まれる。大村中学校・第五高等中学校を経た後、明治29年(1896年)に、帝国大学文科大学国史学科卒業し、帝国大学大学院に入学。同時に経済雑誌社に入り、田口卯吉の下で『国史大系』の校訂に従事した。また、内藤湖南とは親密な友人関係であったことがしられている。
明治34年(1901年)、東京帝国大学史料編纂員となり、翌年、東京帝国大学文科大学講師を嘱託された。明治38年(1905年)、史料編纂官兼東京帝国大学助教授となった。同年、「日本古文書様式論」により東京帝国大学より文学博士の学位を授与した。
明治41年(1908年)から2年間、私費で学術研究のために欧米各国に出張し、大正8年(1919年)、史料編纂官兼東京帝国大学教授に就任した。翌大正9年、史料編纂官を退任し、東京帝国大学教授専任となる。
昭和10年(1935年)、東京帝国大学教授を退官。同大学名誉教授の称号を受く。翌昭和11年、史跡調査の途中、群馬県高崎市で倒れ、10年間の闘病生活の末、昭和21年12月21日、東京都渋谷区の自宅で死去した。享年73歳。
東京帝国大学で34年教鞭をふるい、多くの後進を育てるとともに古文書学の体系化にあたった。そのことは、正倉院文書の調査の開始や、東寺・金剛峯寺等の古文書の整理や、史料編纂掛の『大日本古文書』の編纂を主宰したことにあらわれている。また、『国史大系』『続国史大系』『国史大系六国史』『国史大系類聚国史』に次いで、昭和4年(1929年)から『新訂増補国史大系』の編纂に着手し、日本史研究の基礎史料たる古典籍の普及に努めた。
ほかに、学者としての業績は多岐に亙り、古社寺保存会・史蹟名勝天然記念物調査会・国宝保存会・重要美術品等調査委員会・朝鮮総督府宝物古蹟名勝天然紀念物保存会・法隆寺国宝保存会等の委員を務め、文化財の保存に尽力した。また、大正13年(1924年)に、臨時御歴代史実考査委員会の委員となって、長慶天皇の即位を明らかにし、同年、臨時東山御文庫取調掛の嘱託となり、御物の整理をした。昭和9年(1934年)、独力で日本古文化研究所を創設してその所長となり、藤原京跡の発掘調査を指導し、藤原京朝堂院の規模を明らかにした。
主な著作は、『更訂国史の研究』3巻、『虚心文集』8巻、『欧米文明記』等。