鸚鵡籠中記
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鸚鵡籠中記(おうむろうちゅうき)とは、元禄の頃、尾張藩の尾張徳川家の家来であった朝日重章の日記である。
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[編集] 概要
書き始めは元禄4年6月13日(旧暦)(1691年7月8日)、書き終わりは享保2年12月29日(旧暦)(1718年1月30日)。期間26年8ヶ月、日数8,863、冊数37、字数200万に及ぶ膨大な日記で、元禄時代の下級武士の日常の記録として非常に貴重な資料である(一般に朝日重章は尾張藩の下級武士と表現され、またそういう文脈で紹介されることも多いが、役職的には中級ぐらいの武士であるとするほうが妥当という説もある)。
朝日重章の死後、跡継ぎに娘しかいなかったため養子を立てたが、病弱であったためほどなく知行を返上、朝日家が断絶したため、経緯は不明ながら鸚鵡籠中記は尾張藩の藩庫に秘蔵された。その後、昭和40年代までの約250年にわたって公開されず、まぼろしの書として存在のみが知られていた。
鸚鵡籠中記の公開がはばかられた理由は、4代藩主徳川吉通の大酒の逸話や失敗談、またその生母本寿院の好色絶倫な荒淫ぶりをいくつも記載していおり、また当時の生類憐愍の令への批判など、公開をはばかられる内容が多かったためと考えられる。
現在は名古屋市が所蔵している。現存する鸚鵡籠中記は端正な筆跡で整然と記述されている点から、朝日文左衛門自身が書いた真筆ではなく、遺族が藩に提出した物を記録用に祐筆が清書した物ではないかとされる(尾張藩では有職故実・行事の資料とするために家臣の備忘録などを提出させていた)。
なお、この日記の解説書として、神坂次郎「元禄御畳奉行の日記~尾張藩士の見た浮世~」(中公新書刊 ISBN 4121007409)という名著がある。これはまた、横山光輝によりマンガにされている(中央公論社 ISBN 4120017001)。また、石川サブロウ(原作は土岐正造)によって「ひょぼくれ文左〜鸚鵡籠中記より〜」という作品も描かれているが、こちらは創作部分が多い。
[編集] 筆者について
朝日重章(あさひしげあき) 幼名甚之丞。のち、亀之助、文左衛門、家督を譲られた後は父の名前を嗣いで定右衛門。
- 延宝2年(1674年)誕生。父は重村(尾張徳川家御天守鍵奉行、知行百石)。
- 元禄4年6月13日(旧暦)(1691年7月8日)、日記を書き始める。
- 元禄6年4月21日(旧暦)(1693年5月25日)、弓術師匠の朝倉忠兵衛の娘けいと結婚
- 元禄7年(1694年)12月、家督を継ぐ(御城代組、御本丸御番、知行百石)。
- 元禄13年(1700年)4月、御畳奉行。役料四十俵。
- 宝永5年(1708年)8月、定右衛門に改名。
- 享保2年12月29日(旧暦)(1718年1月30日)で日記絶筆。
- 享保3年9月14日(旧暦)(1718年10月7日)没。享年45。法名月翁了天居士。菩提寺は善篤寺。
[編集] 日記名の由来
朝日重章自ら付けた名であり本当の理由は不明であるが、籠の中にいる鸚鵡(オウム)のように口真似をしているつもりで、日常見聞きした事柄を書き綴った日記、という意味か。前記「元禄御畳奉行の日記」でもそのように捉えている。
[編集] 外部リンク
- 元禄御畳奉行の日記 抄日本ペンクラブ電子文藝館編輯室の神坂次郎の紹介