鳴梁海戦
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鳴梁海戦(めいりょうかいせん)は、鳴梁渡海戦ともいい、慶長の役における海戦の一つ。
鳴梁海戦 | |
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戦争: 慶長の役 | |
年月日: 1597年9月16日(和暦) | |
場所: 朝鮮国全羅道鳴梁渡 | |
結果: 朝鮮水軍の局地的勝利 | |
交戦勢力 | |
日本水軍 | 朝鮮水軍 |
指揮官 | |
藤堂高虎 来島通総 毛利高政 |
李舜臣 |
戦力 | |
中型船約40隻 | 大型船13隻、その他約100隻 |
損害 | |
数隻喪失、来島通総以下10人死亡 | 34人死亡 |
慶長二年(1597年)九月十六日(和暦/以下同)に陸軍に呼応して西進しようとした日本水軍と朝鮮水軍との間に起こった海戦。韓国では鳴梁大捷と呼ばれる、李舜臣率いる朝鮮水軍が日本軍に勝利を収めた戦いとして評価が高い。しかし、日本水軍先鋒を地の利を生かして攻撃した後は衆寡敵せずに撤退しており、戦場の制海権を失ったために基地である(全羅道)右水営や対岸の珍島を攻略を許し、日本水軍の侵攻は成功した。また、伊予の来島通総が朝鮮の役に出征した唯一の大名戦死者となった。 鳴梁渡は珍島と右水営半島との間にある海峡であり、潮流が速く大きな渦を巻いている航行の難所。
目次 |
[編集] 戦闘の経過
慶長二年(1597年)八月下旬、左軍に属する船手衆の将藤堂高虎、加藤嘉明、脇坂安治、来島通総らは南原城攻略後に艦船に帰り、陸軍に呼応して全羅道の南海岸沿いを西進しようと図った。先鋒が九月六日に於蘭浦沖に達し、碧波津(珍島の東北端の渡し口)に布陣していた李舜臣率いる朝鮮水軍との間に小競り合いが生じる。朝鮮水軍はいったん日本水軍先鋒を撃退するが、大船は十二、三隻があるだけだったので、後続の日本水軍の集結を知るとひとまず鳴梁渡に退き、十四日さらに右水営沖に移った。 藤堂高虎らは敵大船が近くにいることを知ってその捕獲を図り、九月十六日、水路の危険を考えて全軍ではなく中型船四十隻ほど(朝鮮側記録では百三十余隻[1])で鳴梁渡へ向かったものの、それを察知して迎え撃った大船十二隻、その他百隻の陣容の朝鮮水軍に、来島通総以下十人が戦死、藤堂高虎が負傷、数隻が沈没するなど苦戦した。[2]夕方になると朝鮮水軍は唐笥島に退き戦闘は終結する。日本水軍は水路に不案内なため、帆を上げて戦場を離脱する朝鮮水軍を追撃することは適わなかった。[3]朝鮮側の記録では十三隻が参加し喪失は無し、戦死三十四人という。
[編集] 海戦後の経緯
この海戦と相前後して全州会議と井邑会議で決められた陸軍の方針に従って一度漢城付近まで進出した陸軍のうち全羅道西南部の掃討を担当する大名達が、九月中旬以降南下してきており、朝鮮水軍はそれらの日本陸軍部隊が西岸部に進出してきたために更に古郡山島までその後約一ヶ月の間、北上退避せざるを得なくなった。他方、朝鮮水軍の退却を受けて日本の水軍は海戦の翌日には朝鮮水軍の根拠地であった右水営を攻撃し、また対岸の珍島を攻略した。さらに陸軍に呼応して全羅道西南岸(現在の全羅南道西岸域)を制圧していった。(後に看羊録を残した姜コウが9月23日に藤堂水軍の捕虜となった地点は全羅道霊光の西岸である) その後、越冬のため日本陸軍が南岸部へ撤退するのに従って日本水軍も南岸部に後退した。
[編集] 評価
日本水軍の半島西岸への進出をいったん阻止した形ではあるが、陸軍が西海岸に進出したことにより李舜臣は全羅道北端まで撤退せざるを得ず、結局は制海権を失ったため、この海戦による戦略的な意味は見いだせない。朝鮮水軍の再進出は日本の陸軍の撤退を待たざるを得なかったため、鳴梁海戦は戦局の大勢には影響を与えなかった小戦闘と言えよう。
しかしながら、韓国側の見方では、この戦いを鳴梁大捷と呼んでいるように日本に大勝した海戦とされ、日本水軍の参加兵力が軍船133隻、運送船200隻で、損失が沈没31隻、大破92隻、8000~9000人が死亡とするなどの過大と思われる主張が見受けられる。しかし、船手衆として左軍に加わった日本水軍の兵力は藤堂高虎(2,800)、加藤嘉明(2,400)、脇坂安治(1,200)、来島通総(600)、管平右衛門(200)の7,200名であり、これに若干の他家の水軍を加えたとしても8,000人に満たないと思われ、さらに実際に出撃したと思われるのは藤堂、来島、菅ぐらいであることからすれば、そのような韓国側の主張に無理があることは明白であろう。なお、李舜臣自らの著になる「乱中日記」には”賊船三十一隻撞破”とあるのみである。
また、韓国ではこの海戦自体は歴史教科書にも載っており国民に広く知られているものの、西進しようとした日本軍に大打撃を与えてそれを阻止したということのみが強調されており[4]、一般的には戦闘の後に李舜臣が北方に退却し日本水軍が西岸に進出したという事実は認識されてはいない。
[編集] その他
[編集] 馬多時
「乱中日記」に記述のある討ち取られた日本の将”馬多時”は、この海戦で戦死した大名の来島通総と解されていることが多いが、戦死者として日本側の記録に名のある”菅野又四郎正陰”であるとする説があり[5]、”馬多時”の朝鮮語音はMatashiであり又四と同音という。[6]なお、”菅野”となっているが、正しくは船手衆として加わった大名、菅平右衛門の子息である菅又四郎正陰のことである。
[編集] 参照
[編集] 参考画像
http://jbbs.joins.com/content.asp?board_idx=1355&page=1&tb_name=m_discuss1
韓国のサイトだが鳴梁海戦を描いたものではないかと推定される日本画の画像が掲載されている。朝鮮水軍の大型船(板屋船)に接舷攻撃をかけている来島水軍のものらしい関船クラスの中型船とそれに続く矢倉を持たない小早クラスの小型船が描かれた全体図とその部分拡大図が数枚。
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