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高萩洋次郎 |
名前 |
愛称 |
|
カタカナ |
タカハギ ヨウジロウ |
ラテン文字表記 |
TAKAHAGI Yojiro |
基本情報 |
国籍 |
日本 |
誕生日 |
1986年8月2日 |
出身地 |
福島県いわき市 |
身長 |
182cm |
体重 |
64kg |
血液型 |
B型 |
選手情報 |
在籍チーム |
サンフレッチェ広島 |
ポジション |
MF |
背番号 |
25 |
利き足 |
右足 |
|
■Template(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
高萩 洋次郎(たかはぎ ようじろう、1986年8月2日 - )は、福島県いわき市出身のJリーグ・サンフレッチェ広島所属のサッカー選手(MF)。広島県立吉田高等学校~クラーク記念国際高等学校広島キャンパス卒業。
[編集] 経歴
[編集] ~ユース世代
小さいころからプロ入りを目指し、柏レイソルU-15などJリーグの下部組織チームのテストを受けていたがどこにも合格せず、中学3年次には当時Jヴィレッジサッカースクールのコーチをしていた高田豊治から誘いを受け、サンフレッチェ広島ユースに入団。同級生には、前田俊介・高柳一誠・佐藤昭大・森脇良太・桒田慎一朗・藤井大輔・大屋翼らがいる。
2003年高校2年生次には、高校年代のサッカー界に旋風を巻き起こした広島ユースの中心選手として活躍。で、チームを日本クラブユース選手権初優勝、高円宮杯全日本ユース選手権3位に導く。
またトップチームでは同年春に前田俊介・高柳一誠・佐藤昭大とともに2種登録選手。同年4月5日J2リーグ第4節湘南ベルマーレ戦に16歳8ヶ月3日で初出場、J1・J2通じての最年少出場記録を更新する。(翌年、東京Vの森本貴幸が更新)。
[編集] プロ入り後
2003年11月1日、シーズン途中にユースから昇格しサンフレッチェ広島とプロ契約。プロとしてはサンフレッチェ広島史上初の高校生Jリーガーとなる。(プロ未契約ながら公式戦出場を果たした初のケースは森崎和幸)。トップチーム昇格後は度重なる怪我や病気に泣き、また守備力に難があることから出場機会にはあまり恵まれなかった。
2006年、田村祐基・森脇良太とともに愛媛FCへレンタル移籍、すぐに中心選手として活躍し、J2昇格初年度の愛媛FCの躍進を支えた。
翌2007年広島に復帰。
[編集] プレースタイル
豊富な運動量と精度の高い長短のパスを駆使したゲームメイカー。ボランチや右サイドハーフ、右サイドバックなどができる。
[編集] エピソード
- 高円宮杯では帝京高校をはじめとする高校サッカー界の強豪を次々との撃破。準々決勝では高校総体優勝、後に同年度の高校選手権を圧倒的な力で制することになる平山相太・兵藤慎剛・中村北斗らを擁する国見高校と対戦。インターハイ王者VSクラブユース王者の対戦として“事実上の決勝”とも言われたこの試合に勝利する。1-0という最小スコアではあったが広島ユースは観客・サッカー関係者の度肝を抜くパフォーマンスを見せ、国見を圧倒した。準決勝では静岡学園に0-1で惜敗し決勝進出はならなかったものの、この大会で広島ユースが魅せたサッカーとその中心選手として輝いた高萩には大きな将来性を感じさせた。
- メンチカツが好き。
[編集] 所属クラブ
- 植田スポーツ少年団
- いわき市立植田中学校
- Jヴィレッジサッカースクール
- サンフレッチェ広島ユース
- サンフレッチェ広島(2003年 - 2005年)
- 愛媛FC(2006年)
- サンフレッチェ広島(2007年 - )
[編集] 背番号
- 35(2003年):2種登録
- 26(2004年-2005年)
- 25(2006年-)
[編集] 代表歴
- アジアユース2002 U-16日本代表(2002年)
- 第8回国際ユースIN新潟 U-18日本代表(2004年)
- アジアユース2004 U-19日本代表(2004年)
[編集] 出場歴
[編集] Jリーグ年度別成績
年度 |
チーム |
J1/J2 |
リーグ戦 |
カップ戦 |
天皇杯 |
2003年 |
広島(2種) |
J2 |
4試合0得点 |
な し |
0試合0得点 |
2004年 |
広 島 |
J1 |
4試合1得点 |
0試合0得点 |
0試合0得点 |
2005年 |
広 島 |
J1 |
0試合0得点 |
0試合0得点 |
0試合0得点 |
2006年 |
愛 媛 |
J2 |
44試合3得点 |
0試合0得点 |
|
J1通算 |
― |
J1 |
4試合1得点 |
0試合0得点 |
0試合0得点 |
J2通算 |
― |
J2 |
48試合3得点 |
な し |
0試合0得点 |
[編集] 関連項目