養賢堂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
- 江戸時代の仙台藩の藩校。本稿に記述。
- 東京の出版社。科学・工学・農学関係の専門書をおもに発行する。[1]
養賢堂(ようけんどう)は仙台藩の藩校。正式には明倫養賢堂。
目次 |
[編集] 沿革
藩の子弟を教育するために、元文元年(1736年)5代目藩主・伊達吉村のとき、仙台城下・細横丁北三番丁の武家屋敷に開設した学問所を前身とするという。宝暦10年(1760年)7月に医学教育を開始。宝暦11年(1761年)3月に勾当台通り北一番丁(現在の宮城県庁辺り)に移転。安永元年(1772年)に養賢堂に改称。
文化14年(1817年)の頃には、校舎の大幅な拡張工事が行われ、また、養賢堂から仙台藩医学校を分離設置した。文政5(1822年)に仙台藩学校蘭科を開設し、わが国初の西洋医学講座を実施した。
養賢堂は、幕末には額兵隊の宿舎としても使用された。額兵隊隊長の星恂太郎も養賢堂の出身である。一説には、新撰組の山南敬助もここで学んでいたというが、名簿に名は見当たらないらしい。戊辰戦争を期に賊軍となった仙台藩において、養賢堂は明治政府に接収されて、後に宮城県庁として使用された。正門だけは移され、現在では泰心院の正門として残っている。養賢堂はその後第二次世界大戦で焼失。現在は現代的な県庁舎が建っている。
他方、仙台藩医学校は、明治2年(1869年)に施薬所と改称し、以後、改組・改称を繰り返し、最終的には1912年に東北帝国大学医学専門部として包摂された。現在は、東北大学医学部となっている。
[編集] 学問
対象は八歳からで、三度落第したら退学という決まりになっていた。主に、孝経、小学本註、四書集註などを学んでいた。その後藩内各所にも学問所等が開設され、仙台藩は諸藩と比べても極めて高い教育水準を持つこととなった。林子平、高野長英などはここの出身である。仙台藩には、彼らに加えて建部清庵、大槻玄沢など蘭学者が多かったことから、ある時期以降は蘭学も教えられるようになった。大槻平泉が学頭となったとき、大胆な改革が行われ、以後息子の大槻習斎や親族の大槻磐渓(漢学者)など、大槻氏から多くの学頭が輩出されることとなる。
- 上記以外の出身者・関係者
[編集] 正門
文化十四年(1817年)、講堂と共に完成。 明治維新後、養賢堂が新県庁舎に使用され、洋風の門が新たに建設されるのに伴い、勾当台にあった養賢堂正門は、仙台市若林区南鍛治町に移された。養賢堂の遺構として現存する唯一のものである。
造りは、一間一戸の四脚門であり、屋根は切妻造、棧瓦葺であり、また伊達家の家紋「三引両」と「九曜」を配した漆喰塗の棟や細部の装飾などで重厚な外観となっているのが特徴である。