飯田龍太
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飯田龍太(いいだ りゅうた、1920年7月10日 - )は日本の俳人、評論家。戦後における俳壇で新鋭的な俳人として一躍注目を集める。俳人・飯田蛇笏の四男。
[編集] 経歴
1920年、山梨県東八代郡五成村(現・笛吹市)に生まれる。折口信夫を尊崇していた彼は旧制甲府中学(現山梨県立甲府第一高等学校)から國學院大學へ進み、句作にふける。胸部の病で一時大学を休学したこともあったため、7年掛かって大学を卒業。
その後は句作を活発に勤しみ、俳句と俳人に囲まれた環境にあったため、父の句会に加わり、「雲母」の編集に参加。1954年には句集『百戸の谿』を出版し、1957年には現代俳句協会賞を受賞するなど巷から次第に実力を認められていく。当世的な感覚から生み出される叙情味あふれた句は、多くの人間を惹きつけた。
兄たちは若くして次々と亡くなり、300年続く大庄屋飯田家の家督を継ぎ、現在境川で暮らしている。「種蒔く人」は1971年の第五句集『春の道』から、「枯山の」は1975年の第六集『山の木』から所収されたもの。 飯田龍太の作品には他に『童眸』『忘音』『麓の人』などがある。
[編集] 年譜
- 1940年 國學院大学入学。
- 1947年 國學院大学卒業。
- 父・蛇笏主宰の『雲母』の編集に参加。
- 1954年 『百戸の谿』を出版。
- 1957年 現代俳句協会賞を受賞。
- 1959年 『童眸』を出版。
- 昭和37年(1962年)父の没後、俳誌『雲母(うんも)』の主宰を継承し、俳句に勤しむ。
- 昭和43年(1968年)『忘音』にて、第20回読売文学賞受賞。
- 昭和56年(1981年)日本芸術院賞、恩賜賞受賞。
- 昭和58年(1983年)紫綬褒章受賞。
- 昭和59年(1984年)日本芸術院の会員になる。
- 平成4年(1992年)蛇笏没後30年を期に、俳誌「雲母」を900号目で廃刊。
毎日俳壇選者をつとめる。著作に『山居四望』などがある。