阪神851形電車
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阪神851形電車(はんしん851がたでんしゃ)は、かつて阪神電気鉄道が保有していた鉄道車両。本項目では同様に製造された861形と881形についても記す。
[編集] 概要
木造車の鋼体化工事が一通り終わろうとしていた1936年、急行電車用に831形が3扉であったのに対して2扉を採用し、窓も大型にした仕様の車両として、851形が7両まず製造された。この時は既に集電装置のパンタグラフ化が阪神本線では終わっていたため、851形も当然パンタ集電だった。
特徴すべきは前面で、運転台をそれまでの阪神電車が中央にあったのに対して進行方向左側に置き、貫通扉に折り戸を採用した上で前面を全面ガラス張りにしていた。阪神では混雑時にはこのような小型車を何両も連結して編成を組んでいたが、中間車に組み込まれる時は仕切り戸を用いて運転機器を覆い、運転台にも客を入れられるようにしていた。
そのガラス張り貫通路が先頭に来たとき、正にその店の入り口のように見えることから、鉄道ファンには「喫茶店」と呼ばれていた。芦屋市で育ち阪神電鉄に良く乗った鉄道ライターの川島令三が、幼年期からよく好んだ車両でもあった。
851形新製の翌年には若干仕様を変えた861形が17両新造され、更に1941年と1942年には輸送力強化のため881形が30両製造されるはずであったが、電動車として製造されたのは20両で、残り10両は太平洋戦争中の資材不足のため同社初のモーターなし車両(付随車)として製造される事になった。この881形が、阪神における車長14~15m級車最後の新製である。戦時体制強化もあって、明かり窓などが廃されて乗降扉の幅が拡大された。
阪神電鉄では、これらの車両を801形などと混結して運用につかせたが、通勤時などには最大で6両編成を組むこともあり、それらの際は全車電動車となるのが普通であるため、全車がパンタを上げて走行する姿が見られ、迫力あるものとして鉄道ファンの羨望を浴びたこともあった。
戦中や戦後直後は資材不足から故障も多く発生し、戦後になると敗戦と食糧不足の腹いせから乗客によって窓ガラスが割られるという事態も発生したが、阪神では百貨店のショーウインドウガラスを転用するなどして、その整備に尽力した。
戦後も長く運用についていたが、3011形に始まる大型車の投入が進んだこともあって、1965年までに阪神本線から撤退し、最後に残った武庫川線の881形も1967年には廃車された。
[編集] 私鉄譲渡
一部車両は地方私鉄に譲渡されている。その概略は以下の通り。
- 861形
- 京福電気鉄道、野上電気鉄道
- 881形
- 高松琴平電気鉄道(16両)→高松琴平電気鉄道30形電車(2代)
- 譲渡からわずか10年前後で全廃されたが、下回りは車体の数よりも多く導入され、現在でも使用されている。
- なお野上電鉄にも1両が譲渡されたが、その重量で橋が壊れる恐れがあったため、使用開始から1ヶ月で運用が停止された。
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