長禄合戦
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長禄合戦(ちょうろくかっせん)とは、長禄2年(1458年)7月ころから長禄3年(1459年)8月11日までの間、越前を舞台として勃発した越前守護斯波義敏と越前守護代甲斐常治の間に勃発した合戦群の総称。
[編集] 概略
斯波氏庶流の大野氏から斯波惣領家である武衛家の当主となった斯波義敏は、甲斐常治の専横に業を煮やし、長禄2年7月ころ、堀江利真を越前に派遣して合戦を引き起こし、利真は、越前国内の甲斐派を追い出すなど、緒戦は守護側の勝利となった。
これに対し、甲斐常治は、息子甲斐敏光と朝倉孝景を越前に派兵した。当初苦戦を重ねるものの、長禄3年2月、幕府の調停を守護側が無視したため、室町幕府八代将軍足利義政は、守護代側に肩入れするようになる。
そのような状況の中、義敏は、関東出兵の幕府命令を無視して、守護代側の金ヶ崎城を攻めたことから、義政の怒りを買って周防に落ちた。
しかし、利真はその後も抵抗を続け、長禄3年8月11日、越前国足羽郡和田荘で最終決戦となったが、朝倉孝景の活躍により守護代側の勝利となる。
[編集] 朝倉氏における長禄合戦の意味
朝倉孝景は、父家景から家督を譲り受けたが、当初,その基盤は決して盤石ではなかった。孝景が越前朝倉氏における一門宗家の立場にあったものの、朝倉一族の中に従わぬ者がいたためである。 しかし、この長禄合戦において、反孝景派である朝倉(鳥羽)将景、朝倉景契、朝倉(阿波賀)良景などを討ち果たし、さらに、常治が合戦終了直後に亡くなったため、孝景は、越前での地位を高めることとなり、この一戦が朝倉氏台頭のきっかけとなる。