長崎宏子
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長崎 宏子(ながさき ひろこ, 本名・春日宏子、1968年7月27日 - )は、秋田県秋田市出身の水泳選手。平泳ぎの選手として、主に1980年代に活躍した。現在はスポーツコンサルタントをしている。
地元では天才水泳少女として注目され、秋田市立川尻小学校6年だった1980年に、すでに政治的問題から日本の不参加の決まっていたモスクワオリンピックの代表メンバーに選ばれる。出場していれば夏季五輪では日本人初の小学生五輪選手(冬季は1936年のガルミッシュパルテンキルヒェン大会に小学6年で出場した稲田悦子がいる)となっていた。同年から水泳日本選手権の100m・200m平泳ぎで8連覇。
「水泳不毛の地」といわれた地域から誕生した俊英であったが、それだけに様々な苦労もあった。普段指導しているコーチが、長崎以外には実績ある選手を持たないため、全日本チームには加われなかった。
中学3年の1983年に翌年のロサンゼルスオリンピック本番と同じプールを使って行われたプレ・オリンピックの200m平泳ぎで、日本人で同種目初の2分30秒を破る2分29秒91の記録で優勝。この記録は世界歴代4位でその年の世界最高記録であり、翌年の本番でのメダル候補として注目を浴びる。
1984年、一般入試で秋田県立秋田北高等学校に進学。いくらでもスポーツ進学が可能であったのにそうしなかったのは、水泳以外に明確な将来の目標があったからといわれる。
ロサンゼルスオリンピックに際しては、彼女のベストを上回る記録を持っていた東欧の選手が軒並み政治的問題で不参加となり、一躍水泳では唯一と言ってよい金メダル候補となる。しかし海外の高地練習で泳ぎの生命線というべき膝を故障。その状態でオリンピック本番を迎え、結果は200m平泳ぎ4位、100m平泳ぎ6位と入賞するものの、期待されたメダルには手が届かなかった。
1985年に高校を中退してアメリカへ水泳留学。地元秋田で「有名人」として遇されることへの疲れもあったといわれる。ここで、競技者としてだけでなくスポーツビジネスを専攻。
1988年に帰国してソウルオリンピックの代表選考会に出場するが、日本人選手に敗れる。従来の実績を買われて代表メンバーに選ばれるものの、100m平泳ぎ・200m平泳ぎともに予選落ちと結果は振るわなかった。
ソウルオリンピック後、いったん水泳から身を引くことを決意。しかし、アメリカで入学したブリガムヤング大学から「水泳の記録会で好成績を出せば奨学金を出す」という話があり復帰する。アメリカの友人達からロス五輪の「敗北」について「世界で4番目とは凄いことだ」と評価され、それまで後ろ向きに捉えていた水泳への見方が変わったことも後押しした。1991年の日本選手権で100m・200m平泳ぎでそれぞれ2位に入ったのを最後に競技の第一線を退く。続けていれば、翌年のバルセロナオリンピックで夏季大会では日本女子初の4大会連続代表も不可能ではなかったが、オリンピックを目指す気持ちはすでになかった。
そのバルセロナオリンピックでは、岩崎恭子が自らの記録を9年ぶりに破り、さらに金メダル獲得を果たす場面を、テレビのゲストコメンテーターとして目撃した。なお、1984年に樹立した100m平泳ぎの日本記録は1995年に田中雅美が更新するまで11年間破られなかった。
その後、JOC職員となるも、組織のあり方と自分の理想の違いから退職。この間、IOCの選手委員も務めている。
JOC退職後に個人事務所「ゲンキなアトリエ」を設立。マタニティースイミングなどの水泳指導者として活躍している。2001年に故郷・秋田市にオープンした秋田県立総合プールの名誉館長に選ばれた。
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