鏡岩善四郎
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鏡岩善四郎(かがみいわ ぜんしろう、1902年5月4日-1950年8月6日)は、大相撲の力士である。青森県十和田市出身、粂川部屋所属。最高位は大関。
郷里で怪力で知られ、草相撲で鳴らした。1922年1月場所初土俵を踏む。入門が遅かったせいもあって、昇進は遅々としていて、新十両(1927年10月)、新入幕(1928年3月)は25歳と当時としても速くはなかった。怪力から〈猛牛〉というあだ名がついていたが、相撲はゆったりとしていた。そのためか、幕内でもゆったりと牛の歩みのごとく、新小結(1934年5月)にはすでに29歳となっていた。
負け越して平幕に陥落した翌1935年1月場所、駒ノ里に敗れただけの10勝1敗で玉錦と並んで優勝同点、そこから一気に上昇気流にのって、1936年1月には新関脇、そこで8勝3敗、9勝2敗と続けて、双葉山と並んで新大関を決めた。そのとき34歳になっていた。
大関時代もゆったりと土俵をつとめ、1938年からは師匠の死によって二枚鑑札で粂川部屋を継承した。1939年5月、2場所連続負け越したところで現役を引退、年寄専任となった。粂川部屋は、彼の時代に何人かの十両力士を出したが、1941年末に、双葉山が立浪部屋から独立して双葉山道場を興したとき、部屋の力士全員を双葉山に譲って部屋を閉じ、部屋付親方としてその後の人生を送った。
1939年1月場所11日目、磐石熊太郎との対戦で、水が入って二番後取り直しとなったが、棄権を申し出たところ、相手の磐石が不戦勝を承諾しなかったので、二人とも不戦敗という珍しい記録を残しているのも、彼の人柄を表している。