銅鐸
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銅鐸(どうたく)とは、弥生時代に製造された釣鐘型の青銅器のこと。主に近畿地方の遺跡から出土している。12センチから1メートルを越すものまであり、当時の家屋など弥生時代の習俗の様子を描いた原始的な絵画が鋳出されているものもある
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[編集] 歴史
中国の銅鈴が起源とされるが、日本で出土する形状に類似するものは一切見つかっていなく、銅鐸が日本ないし、その限られた地域と時期にしか繁栄していないことは確かである。また、朝鮮半島には、朝鮮銅鐸と言われる文字も絵もない小型のものが出土する。そして朝鮮を経由して紀元前二世紀頃、日本に伝わったと考えられているが、いずれにしても、日本の銅鐸が倭国独自に発達したモノに間違いはないだろう。
1世紀末ごろ境にして急に大型化する。この大型化した銅鐸には、近畿式と三遠式の二種がある。近畿式は大和・河内・摂津で生産され、三遠式は濃尾平野で生産されたものであろうと推定されている。近畿式は、近畿一帯を中心として、東は遠江、西は四国東半、北は山陰地域に、三遠式は、東は信濃・遠江、西は濃尾平野を一応の限界とし、例外的に伊勢湾東部・琵琶湖東岸・京都府北部の日本海岸にそれぞれ分布する。それぞれの銅鐸は2世紀代に盛んに創られた。2世紀末葉になると近畿式のみとなる。銅鐸はさらに大型化するが、3世紀になると、突然造られなくなる。
[編集] 銅鐸の不明点
それもそのはず、銅鐸には、あってよさそうな文字が見つからない。現在までに500箇余が出土しているにもかかわらず、同じように、現在まで500箇余出土している鏡と違って、画や紋様の他は、何も記されていないのだ。また、この地下埋蔵物のは不可解な点がいくつもあり、謎が謎を呼んでいる。現在までに多くの出土があるが、詳しい事は全く判明していない。
それをまとめてみると・・・
- 銅鐸には一文字もない。
- 魏志倭人伝や古事記、万葉集に一つの記述もない。
- 銅鐸を祭った神社はない。
- 出土は突然で、山間や谷間から単品で、誰がいつ、どのような目的で使用し、埋葬したのか全て不明。
- 古墳からの出土は皆無に等しく、神社等の遺跡からの発見は未だかつて無い。
- 銅はどのようにして手に入れたのか。
などが挙げられる。ここで不思議なのが2と6である。まず2、話はそれるが、魏志倭人伝は倭の邪馬台国をそれなりに詳しく記述しているが、銅鐸の記述が見当たらない事である。もし、邪馬台国に銅鐸があり、時報ないしそのような用途に使われていたならば、自国の魏にない銅鐸を珍しく思い、詳しく記述するはずであろう。しかしそれがないので、邪馬台国には銅鐸文化が根付いていない地域と考えられる。(邪馬台国の位地については諸説があるので、ここではこれまでにしておく)
- 6においては、不思議にも程がある。日本で初めて銅が発見されたのは和銅元年。それより古い時代に、大量の銅鐸の材料をいったいどうやって手に入れたのだろうか。未だに全く不明。
[編集] 用途
実際、どのように使用されたかは定かではないが、ある程度推察する事は出来る。銅鐸はその形状ゆえ、初期の小型の物は内側に棒を吊るし、鐘や鈴のように使用されたと考えられる。1世紀末頃には大型化が進み、シカやサギ、狩人などの絵が描かれたものが多くなることから、音を出す目的から観賞用へと変化したのではないかと言われている。「聞く銅鐸」から「見る銅鐸」へ。
また、埋納時期が紀元前後と2世紀頃に集中しており、山や丘などの傾斜地にまとめて埋納された例が多い。銅鐸を埋納したことの意味については諸説あるが・・・
- 米や穀物の豊穣を祈って拝んだのではないかと言う説。しかし、これには反論があり「祭るための宝物ならそれなりの扱いを受けるはずで、そのような施しは見受けられない」ということである。また、ベトナムの銅鼓は平時地中に埋めてあり、お祭りの時や葬儀の時取り出して使用するというが、銅鐸もそのように掘り返された痕跡が見受けられない。
- 大変事にあたり神に奉納したのではないかという説。
- 地霊を鎮めるために銅器を埋納した風習という説。古代華南にそのような風習が見られた。
- 文字の未だ定まっていない時代に、任命書に代えて鏡ではなく銅鐸を授与したという説。
等々、挙げれば限がないほど、諸説が混在している。それも、先に述べたように、歴史書への記述も銅鐸自身の文字も一切ないから引き起こされるものである。
確かな答えは未だなく、推測の域を脱しない。銅鐸の用途は不明に等しい。
[編集] 著名な銅鐸
- 桜ヶ丘出土銅鐸銅戈群(国宝)、神戸市灘区出土、神戸市立博物館所蔵‐袈裟襷文(けさだすきもん)銅鐸11口、流水文銅鐸3口を含む一括資料。14口の銅鐸のうち、特に4号銅鐸と5号銅鐸は人物、動物などの略画が鋳出されたもので、資料的に貴重である。
- 袈裟襷文銅鐸(国宝)、伝香川県出土、東京国立博物館所蔵‐桜ヶ丘出土銅鐸と類似した略画が鋳出された銅鐸。
- 大岩山出土銅鐸群(重要文化財)、滋賀県立安土城考古博物館、東京国立博物館、辰馬考古資料館、野洲市立歴史民俗資料館(銅鐸博物館)ほか所蔵‐滋賀県野洲市小篠原大岩山から1881年(明治14年)に14口、1962年(昭和37年)に10口出土した銅鐸群。東京国立博物館所蔵の2口のうちの1口は高さ135センチの日本最大の銅鐸である。
- 荒神谷遺跡出土品(国宝)‐島根県簸川郡斐川町出土、文化庁所蔵(島根県立古代出雲歴史博物館ほか保管)‐尾根の斜面から銅剣358本、銅矛(どうほこ)16本、銅鐸6口が出土した。畿内を中心に出土する銅鐸、北九州を中心に出土する銅矛、出雲地方特有の形式をもつ銅剣が同一遺跡から、しかも大量に出土したという点で学術的価値が高い。日本式最古の銅鐸とされる。
- 加茂岩倉遺跡出土銅鐸群(重要文化財)、島根県雲南市(旧大原郡加茂町)出土、文化庁所蔵(島根県立古代出雲歴史博物館保管)‐1996年(平成8年)に発見されたもので、1つの遺跡からの出土例としては日本最多の39口が出土した。
- 突線流水文銅鐸(重要文化財)、岡山市高塚遺跡出土、岡山県立博物館所蔵
- 突線袈裟襷文銅鐸(重要文化財)、徳島市矢野遺跡出土、徳島市立考古資料館保管
[編集] 参考資料
- 『湖国と文化93号~“邪馬台国に銅鐸はなかった”』より
- 他・・・