銀座煉瓦街
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銀座煉瓦街(ぎんざれんががい)は明治初年の銀座大火の後、都市の不燃化を目指して煉瓦造により造られた街並みである。関東大震災で壊滅した。
1872年(明治5年)2月、和田倉門付近から出火し、銀座、築地一帯を焼く大火が起こった。鉄道の起点で、東京の表玄関である新橋に近いこともあり、政府は西洋流の不燃都市の建設を目指した。同年3月には東京府によって煉瓦をもって再建するよう布告が出された。建設方法は官営(大蔵省建設局が建て、希望者に払い下げる)と自営(民間で建てる)があり、建物の設計はお雇い外国人のウォートルスが担当した。
同年8月から着工し、翌1873年のうちには拡幅された大通り沿いに洋風2階建の街並みが出来上がった。ロンドンのリージェント・ストリートがモデルになったといわれている。1877年までかかって煉瓦街の計画は完了した。
煉瓦街とはいっても、表面は漆喰や石で仕上げられたものが大部分で、赤煉瓦の街並みだった訳ではない。
当初は煉瓦造の建物が不評で空き家が多かったともいわれたが、銀座には新聞社や輸入品を扱う店など新しい商業が集まり、西洋文明の窓口になった。 当初の建物は次第に建替えられたり、改修で正面に装飾がほどこされたりしていったが、大正時代までは残っている建物も多かった。しかし、関東大震災ではほとんどの建物が倒壊、焼失し、銀座煉瓦街は完全に消滅した。
- 銀座煉瓦街の建物の様子を知るには江戸東京博物館の展示を見るとよい。
- 長い間煉瓦街の遺構は全く残っていないとされていたが、工事現場から煉瓦壁の一部が発掘されており、これも江戸東京博物館に展示されている。