酒井忠順
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酒井 忠順(さかい ただより)は、若狭小浜藩の第11代藩主。
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時代 | 江戸時代後期 | |||
生誕 | 寛政3年3月14日(1791年4月16日) | |||
死没 | 嘉永6年1月17日(1853年2月24日) | |||
別名 | 亀太郎、与太郎(幼名) | |||
戒名 | 天性院殿霊雄道智大居士 | |||
墓所 | 福井県小浜市男山の空印寺 | |||
官位 | 従五位下、従四位下、修理大夫 | |||
藩 | 若狭小浜藩主 | |||
氏族 | 酒井氏 | |||
父母 | 父:酒井忠貫 養父:酒井忠進 |
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妻 | 正室:松平定国の娘 | |||
子 | 養子:酒井忠義 |
1791年3月14日、第9代藩主・酒井忠貫の次男として生まれる。1806年に父が死去したとき、若年だったため、父の養子であった酒井忠進が後を継ぎ、忠順はその養子となった。1807年12月、従五位下、修理大夫に叙任する。1828年、忠進の死去により後を継いで藩主となる。同年12月、従四位下に昇進する。
この頃、小浜藩には30万両の借金があったため、忠順は10万石の格式を簡略化して財政再建に取り組んだが、1833年に領内大凶作で一揆が起こり、失敗してしまった。1834年2月5日、養子の酒井忠義に家督を譲って隠居する。
1853年1月17日に死去。享年63。