郭嘉
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郭嘉(かくか 170年 - 207年)は中国後漢末期の軍師。字は奉孝。郭奕の父、郭深・郭敞の祖父、郭猟の高祖父。
郭嘉は荀彧に推挙されて曹操に軍師(役職は軍祭酒)として仕え、孫策が暗殺されるのを予測したり、袁紹との戦いで曹操に助言するなど各方面で功績を挙げた。病床の中、袁紹の死後の袁家の自壊も予測していた。 神算鬼謀の天才軍略家として名を馳せる一方、品行方正な人物とは言い難かった。こうした放埒な私生活を軍議の席で陳羣に非難されたが、「ここは公の場であって、私生活を論議する場ではない」とあしらい、意に介さなかった(郭嘉は軍祭酒の官職に就いており、法官に相当する立場であった。法律を監督すべき立場の人物が素行不良では示しがつかない、ということで、陳羣は非難したものであろう)。主君である曹操は、郭嘉の天才的な軍事洞察力を愛する一方、公正で人物鑑定に優れた陳羣も重用していた。彼の人材好きを物語るエピソードといえよう。 郭嘉自身は劉曄を推挙している。
袁家討伐とそれに続く烏丸征伐の最中に風土病を患い、その後病死した。貞侯と謚された。208年の赤壁の戦いの敗戦の際、曹操が「奉孝ありせば・・・」と言ったように、もし郭嘉が生きていれば赤壁の敗北はなかったとも言われた。