遠藤要
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遠藤 要(えんどう かなめ、大正4年(1915年)10月31日~ )は、昭和、平成期の日本の政治家。自由民主党参議院議員、第3次中曽根康弘内閣の法務大臣。
[編集] 来歴・人物
宮城県白石市出身。白石高等小学校を卒業する。昭和22年(1947年)宮城県議会議員選挙に立候補し当選する。以後当選回数7回。昭和46年(1971年)には宮城県議会議長に選出される。昭和49年(1974年)第10回参議院議員通常選挙に自民党公認で立候補し当選する。以後当選回数4回。自民党では、田中派、竹下派(経世会)を経て、小渕派(平成研究会)に所属する。この間、昭和61年(1986年)第3次中曽根内閣の法務大臣に就任した。第14回参議院議員通常選挙(衆参同日選挙)で運動員の中から大量の選挙違反を出したため、法相就任が妥当か問題になった。参議院竹下派(参経会)の実力者であったが、平成10年(1998年)第18回参議院議員通常選挙で落選した。平成11年(1999年)勲一等旭日大綬章受章。
[編集] 最後の「帝銀事件死刑確定者の執行権限者」
刑事事件で死刑が確定した場合死刑囚の命は法務大臣が握っているが1955年に死刑が確定した帝銀事件の犯人平沢貞通の死刑執行権限を持っていた最後の法務大臣がこの人である。在任中平沢が老衰により死亡した為死刑執行権限がこの人の代で消滅したのだ。