賀川豊彦
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賀川 豊彦(かがわ とよひこ、1888年7月10日 - 1960年4月23日)は、大正・昭和期のキリスト教社会運動家。戦前日本の労働運動、農民運動、無産政党運動、生活協同組合運動において、重要な役割を担った人物。キリスト教における博愛の精神を実践した「貧民街の聖者」として日本以上に世界的な知名度が高い。
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[編集] 来歴
神戸市に、回漕業者・賀川純一と徳島の芸妓・菅生かめの子として生まれる。幼少期に相次いで父母と死別し、5歳の時姉とともに徳島の本家に引き取られるも、兄の放蕩により15歳の時賀川家は破産、叔父の森六兵衛の家に移る。旧制徳島中学校(現・徳島県立城南高等学校)に通っていた1904年、日本基督教会徳島教会の宣教師H・W・マヤスより受洗。この頃安部磯雄、木下尚江の著作を読み、キリスト教社会主義に共感を覚える。またトルストイの反戦思想にも影響を受け、軍事教練サボタージュ事件を起こす。伝道者を志し、1905年明治学院高等部神学予科に入学、卒業後の1907年、新設の神戸神学校に入学する。
結核に苦しみ、また信仰への懐疑に懊悩しながら、やがて「貧民問題を通じて、イエスの精神を発揮してみたい」と一念発起し、1909年神戸市新川のスラムに住み込み、路傍伝道を開始する。1911年に神戸神学校を卒業、1912年には一膳飯屋「天国屋」を開業した。1914年渡米し、プリンストン大学・プリンストン神学校に学び、1915年スラムでの経験を踏まえて『貧民心理之研究』を出版する。後に文中に差別思想があるとして部落解放運動関係者から批判された。1917年に帰国すると、神戸のスラムに戻り無料巡回診療を始めた。また、米国留学中の体験から貧困問題を解決する手段として労働組合運動を重要視した賀川は、鈴木文治率いる友愛会に接触し、1919年友愛会関西労働同盟会を結成、理事長となった。同年日本基督教会で牧師の資格を得る。1920年に自伝的小説『死線を越えて』を出版、一大ベストセラーとなり、賀川の名を世間に広めた。印税はほとんど関与した社会運動のために投じられた。また同年、労働者の生活安定を目的として神戸購買組合(灘神戸生協を経て現・コープこうべ=日本最大の生協)を設立、生活協同組合運動にも取り組んだ。
1921年、神戸の三菱造船所(現・三菱重工業)・川崎造船所(現・川崎重工業)における大争議を指導するも、会社側の強硬な対応により敗北を喫し、これを契機に関西の労働運動において急進的なサンディカリストの勢力が増していった。暴力を否定し、時には無抵抗主義を唱える賀川の人格主義的な主張は、次第に敬して遠ざけられるようになっていった。賀川はやがて農民運動に活躍の場を移すことになる。
1922年、協力者杉山元治郎とともに日本農民組合を設立し、本格的に農民運動に取り組んだ。組合は急速に発展し、3年後の1925年末には組合員数は7万人を超えた。この間、1923年関東大震災の罹災者救済活動を行う。また無産政党運動にも積極的に関与し、1926年労働農民党結成に当たっては執行委員に就任するが、同年末の左右分裂に際して党を脱退した。
1920年代後半以降は、社会運動から宗教活動へと比重を移していった。1929年、基督教連盟の特別協議会は賀川のイニシアチブにより「神の国運動」を議決、賀川は「百万人の救霊」を目標として、1932年まで全国を伝道のため巡回した。また米国・中国・欧州等世界各国で講演活動を行う。戦時中は反戦思想の嫌疑によりたびたび憲兵隊に拘引された。
戦後は東久邇宮内閣参与や勅選貴族院議員を務め、日本社会党の結成にも参画した。マーク・ゲイン著「ニッポン日記」によると東久邇内閣の後任首相として有力であったらしいが、戦時中の翼賛的な活動が原因で実現しなかったとの事。同書には一般に知られる賀川の人物像とかなり食い違う姿が記されており、またそこで書かれている様な賀川への批判がGHQにより封じられていたともある。晩年は世界連邦運動に取り組み、1955年にはノーベル平和賞候補者として推薦された。
[編集] 関連項目
[編集] 関連文献
- 隅谷三喜男著『賀川豊彦』(岩波書店、1995年)(ISBN 4002602451)
- マーク・ゲイン著『ニッポン日記』(筑摩文庫)
[編集] 外部リンク
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