豫譲
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豫譲(よじょう、 - 紀元前453年頃)は中国春秋期晋の士。司馬遷『史記』の刺客列伝に登場する。または予譲とも呼ばれる。
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[編集] 略要
[編集] 国士として
彼は晋(現在の山西省・河南省辺り)の人で、初めは六卿の筆頭大夫である范氏に仕官するが、厚遇されず間もなく辞任した。序でに中行氏に仕官するもここでも厚遇はされなかった。やがて立ち去って今度は智伯に仕えた。すると智伯は豫譲の才能を認めて、国士として優遇された。数年後に豫譲は智伯に召し出されて、宿敵の趙襄子を滅ぼすべく、韓氏、魏氏へ連合の催促の使者として赴いて、両氏を説得した。豫譲の才能がここで大いに発揮し、韓氏も魏氏も快く応じたという。こうして智伯は連合軍の総帥として趙襄子の居城である晋陽を攻略した。多勢の連合軍に包囲された趙襄子は頑健に籠城した。だが次第に食糧が尽きてしまい。ここで趙襄子は非常手段に出た。彼は二人の腹心に秘かに韓氏。魏氏の陣営に赴かせて多大な利益を条件として、韓氏と魏氏を味方にしてしまった。やがて智伯は韓氏と魏氏の裏切りで挟撃されて、討たれてしまい、智氏はここで滅ぼされた(紀元前453年)。しばらくして、趙襄子は智伯に対して節年の遺恨を持っていたために、智伯の頭蓋骨に漆を塗り、それを厠用の器として曝したという。一方、豫譲のほうは辛うじて山奥に逃亡して、ここで有名な台詞で「士は己を知るものの為に死す」と述べた。これが「知己」と言う言葉の語源である。やがて、ほとぼりが治まって豫譲は下山し、趙襄子を主君の敵として狙った。
[編集] 刺客として
最初に豫譲は左官に扮して、晋陽に潜伏し常に趙襄子の暗殺を窺がった。だが、趙襄子の部下の暴きで失敗して捕らえられた時、趙襄子は豫譲の筋が通った忠誠心を誉め称えて逃がしてやった。豫譲は今度、顔や体に漆を塗り、喉を潰す劇薬を飲んでは声帯を変えて、やがて改名しては姿を変え、乞食に身を落として再び趙襄を狙った。だが彼の旧友はたまたま彼を見て、その仕草ですぐに「君は豫譲だね?」とすぐに見破り、その旧友は豫譲を自邸に招いて酒を用意し「君は有能だし、君を召抱える君主は結構いるはずだが。何故そんなことをするのだ?」と問うた。それに対して豫譲は「智伯さまは、この俺を国士として温かく迎えたのだ。その仇討ちすることが恩義が篤い亡き智伯さまのための節義である。」と答えたという。
やがて、ある橋の下で趙襄子の暗殺を狙った豫譲は、趙襄子の馬の嗅覚で見破られてしまった。趙襄子は一度目の暗殺未遂では豫譲のことを「天っ晴れなる壮士である!」と絶賛して許したが、今度は許さなかった。同時に趙襄子は「あれから、随分変わり果てたのう…君はその昔に智伯に滅ぼされた范氏と中行氏に仕えていたと申すが、その後は智伯に仕え、有能な国士として厚遇されたというではないか。何故、君ほどの人物がわしに仕えず、そこまであの智伯の仇を討とうとするのか?」と問うと、豫譲は、「范氏と中行氏はわたしを普通の人間として遇したので、普通の人間として報いたが、智伯はわたしを国士として温かく優遇したため、国士としてこれに報いるのみである。」と淡白に答えた。これを聞いた人々は皆涙を流して感動した。やがて、観念した豫譲は趙襄子に向かって「趙襄子さま…君臣の関係は『名君は人の美を蔽い隠さずに、忠臣は名に死するの節義がある』(賢明で優れた君主は人の美点・善行を隠さない、 主人に忠実な家臣は節義を貫いて死を遂げる義務がある。)と申しまする。ですから、以前では、あなた様がわたしを寛大な気持ちでお許しになったことで、天下にあなた様を絶賛されるでしょう。ですから、わたしは潔くあなた様からの処罰を受けましょう。…ですが、出来ることでしたら、あなたの衣服を賜って、それを真っ二つに切ることで智伯さまの無念を晴らしたいと思いまする。」
こうして豫譲は趙襄子の衣服を貰って、それを真っ二つに切りつけてから、「これで安心して、思い残すことなく、亡き智伯さまの所に参り、ご報告ができまする。」と述べて、豫譲はこうして潔く自決したという。さすがの趙襄子も有能な豫譲の死を涙を流して「豫譲こそ、またとない真の壮士である。見事じゃ…」とその死を惜しんだという。この逸話は趙全体に広まり、豫譲は趙の人々に愛されたといわれる。