藤堂高朗
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藤堂 高朗(とうどう たかほら、享保2年10月28日(1717年11月30日) - 天明5年4月7日(1785年5月15日))は、伊勢国津藩の第7代藩主。久居藩の第5代藩主。父は藤堂高武(高朗は次男)。母は武田氏(信令院)。正室は安藤信友の娘。官位は従四位下。和泉守。久居藩主時代の名乗りは藤堂 高豊(とうどう たかとよ)である。
1717年10月28日生まれ。父の死後、その家督と7000石を継いでいたが、1726年に当時、久居藩主であった藤堂高治の養嗣子となる。1728年、高治が本家の津藩を継承することとなったため、その後を受けて久居藩主となった。ところが1735年、今度は本家の津藩主となっていた高治が病に倒れたため、再び高治の養嗣子となって津藩の家督を継ぎ、津藩主となった。久居藩主は弟の藤堂高雅が継いだ。
藩政においては幕府の歓心を得るために、自ら指揮して日光東照宮の修補造営に努めたが、この出費により24万両もの借金を作ってしまった。さらに文学を奨励したため、儒学は発展したが、高朗自身が奢侈に走ったため、士風などが緩んだ。1769年2月9日、病を理由に四男の藤堂高悠に家督を譲って隠居し、1785年4月7日に69歳で死去した。法号:孝譲院殿経山高綸権大僧都。墓所:津市の寒松院。
- 藤堂氏(津藩7代)当主
- 1735~1769
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- 先代:
- 藤堂高治
- 次代:
- 藤堂高悠