藤原師輔
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藤原 師輔(ふじわら の もろすけ 延喜8年(908年) 12月17日- 天徳4年5月6日(960年6月7日))は、平安時代中期の公卿。藤原北家の藤原忠平(ふじわらのただひら)の次男として生まれる。異母兄に実頼。弟に師氏、師尹等。別称として、九条右大臣、坊城大臣、九条殿。
天暦元年(947)、兄の実頼が左大臣となるに従い右大臣に昇進。出世のほうは常に嫡男である実頼が先を行き、結局53歳で亡くなるまで後塵を踏むまま終わる。しかし「一苦しき二」(上席である兄実頼が心苦しくなるほど優れた次席の者)とまで言われ、実際には朝廷の実権は実頼よりも師輔にあった。さらに醍醐天皇の内親王を3人も妻にし、子女の多さが後の繁栄に繋がった。長女の安子は村上天皇の中宮となり冷泉天皇、円融天皇を生み外戚を強化、男子では、長男の伊尹を筆頭に、兼通、兼家、為光、公季と実に5人が太政大臣に進み、子供たちの代で摂関家嫡流を手にすることとなった。
また、忠平の教育を受け実頼と師輔はそれぞれ有職故実の流派を確立。実頼は小野宮流、師輔は九条流と呼ばれ子孫たちに受け継がれることになった。これを纏めた書物が『九条年中行事』。家集『師輔集(九条右大臣集)』、自身の日記『九暦』、子孫に宛てた遺訓書『九条殿遺誡』も残す。また天暦10年(956)、「坊城右大臣師輔前栽合」を主催。代詠を頼むため紀貫之の家を訪ねた逸話などが『大鏡』に記されている。
[編集] 系譜
- 妻:藤原盛子(父:藤原経邦)(?-943)
- 妻:勤子内親王(醍醐天皇第4皇女)(904-938)
- 妻:藤原公葛女
- 妻:藤原顕忠女
[編集] 官歴
※主に『公卿補任』の記載による。日付は旧暦であらわす。
年紀(西暦) | 年齢 | 事歴 |
---|---|---|
延長元年(923年) | 16歳 | 9月5日 叙爵。 |
延長2年(924年) | 17歳 | 2月21日 侍従。 |
延長4年(928年) | 19歳 | 11月10日 昇殿を聴す。 |
延長6年(928年) | 21歳 | 6月9日 右兵衛佐。 |
延長7年(928年) | 22歳 | 正月7日 従五位上。 |
延長9年(931年) | 24歳 | 3月13日 右近衛権少将。 |
承平元年(931年) | 24歳 | 閏5月11日 蔵人頭。 |
承平2年(932年) | 25歳 | 正月27日 近江介を兼ぬ。11月16日 正五位下。 |
承平3年(933年) | 26歳 | 正月12日 右近衛権中将。 |
承平4年(934年) | 27歳 | 正月7日 従四位下 |
承平5年(935年) | 28歳 | 2月23日 参議。 |
承平6年(936年) | 29歳 | 正月29日 伊予権守を兼ぬ。 |
承平8年(938年) | 31歳 | 正月7日 従四位上。 |
天慶元年(938年) | 31歳 | 6月23日 従三位権中納言(7人を超ゆ)。8月27日 昇殿<貞信公記>。9月3日 左衛門督を兼ぬ。検非違使別当となす。 |
天慶2年(942年) | 32歳 | 12月27日 中宮大夫を兼ぬ。 |
天慶5年(942年) | 35歳 | 3月29日 大納言。 |
天慶7年(944年) | 37歳 | 4月22日 春宮大夫を兼ぬ(中宮大夫を止む)。 |
天慶8年(945年) | 38歳 | 2月28日 按察使を兼ぬ。11月25日 右近衛大将。 |
天慶9年(946年) | 39歳 | 正月7日 正三位。4月28日 従二位 |
天暦元年(947年) | 40歳 | 4月26日 右大臣。5月9日 昇殿を聴す<九暦>。 |
天暦4年(942年) | 43歳 | 5月24日以前 修理職別当<九暦>。 |
天暦9年(955年) | 48歳 | 2月7日 正二位。6月17日 右近衛大将を辞す。 |
天徳4年(960年) | 53歳 | 5月4日 九条第にて薨去。出家大臣たるに依りて薨奏贈位なし<日本紀略・栄花物語>。 |