蒲生騒動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
蒲生騒動(がもうそうどう)は、文禄4年(1595年)から慶長3年(1598年)まで起こった会津若松92万石の領主・蒲生家内部の御家騒動。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] 発端
文禄4年(1595年)2月、会津若松の城主・蒲生氏郷が40歳の若さで死去した。このため、氏郷の嫡男である秀行が家督を継いだが、まだ13歳の若年であった。このため、幼少の秀行に代わって蒲生家の政務を執行する補佐役が必要となった。このとき、その補佐役となったのが、蒲生郷安という人物である。
この郷安は、もとは六角氏の家臣であったが、六角氏が滅亡した後、氏郷の家臣となった人物である。氏郷は新参ながら郷安を寵愛し、岩瀬郡の長沼城に3万5000石を与えて厚遇した。それほど有能な人物である。ところが郷安は氏郷存命中から豊臣秀吉の最側近である石田三成と誼を通じていた。このため、一説に郷安が三成の意を受けて氏郷を毒殺したのではないかという説もなされている。
それはともかくとして、氏郷の死後、石田三成の推挙を受けて郷安が秀行の補佐役となった。ところが、郷安は蒲生家内部では新参者のうえ、秀行の幼少をいいことに専横を行なったため、蒲生家譜代の家臣からの怒りを買った。その急先鋒となったのが、蒲生家譜代の家臣で氏郷の信任も厚かった亘理八郎右衛門という人物である。
ところが郷安は事もあろうに、八郎右衛門を会津若松城に誘き寄せて上意討ちとして斬殺してしまったのである。これに激怒した蒲生家譜代の家臣・町野左近らは郷安を暗殺すべく、軍勢を集め、両派は一触即発の事態となった。
[編集] 裁定・結果
このような一連の御家騒動が、慶長3年(1598年)に伏見にあった秀吉のもとに届いた。秀吉は直ちに蒲生郷安を召還して取り調べた。ところが、郷安は微罪であるとして加藤清正にその身柄を預けられるだけであった。逆に、蒲生秀行に対しては「御家の統率がよろしくない」として、会津若松92万石から下野宇都宮12万石に大減封されてしまったのである。
その後、会津には新たに越後春日山から上杉景勝が120万石で入った。
[編集] 実態
蒲生騒動における一連の騒動は、秀吉の意を受けた三成によって操られていた、もしくは三成本人が首謀者であったという説が有力である。
まず、郷安に関してだが、御家騒動を成した張本人であるから処断されてもおかしくないのに、ほとんど罪に問われていないのは、三成が秀吉に弁護したためとされている。さらにその後、郷安は早々と罪を許されて三成と懇意にあった小西行長の家臣となっている。これは、三成の推挙があったためとされている。郷安は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで加藤清正軍と肥後で戦い、戦死した。
また、蒲生家に対する厳しい処分にも疑問が残るし、その後における上杉景勝の入封に関しても疑問が残る。秀行はまだ若年であるから、宿老らを統率できたとしても限度がある。それなのに「統率」を理由に減封している。さらに上杉景勝は家老の直江兼続を通じて石田三成と懇意にあった人物である。このため、関東における大大名・徳川家康を牽制するために重要な領土である会津に、秀吉や三成と懇意にあった上杉景勝を入封させるために計画した陰謀ではないかとされているのである。
この厳しすぎる処分は、関ヶ原の戦いで蒲生家を東軍に与させる遠因にもなっている。