肝付兼続
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肝付兼続(きもつきかねつぐ、永正8年(1511年) - 永禄9年(1566年))は肝付氏第十六代当主。肝付兼興の子。
1533年、父・兼興が死去すると、叔父の肝付兼執を滅ぼして後を継いだ。
隣国の島津氏との関係を重視し、島津忠良の長女を妻として迎える一方で、妹を忠良の子・島津貴久に嫁がせて良好な関係を保とうとした。一方で大隅の平定に着手し、1538年には高岳城を落としたのを契機に、大隅をほぼ平定した。1553年、嫡男の肝付良兼に家督を譲って隠居したが、実権は握り続けたという。
1561年、それまで親密な関係を保っていた島津氏との関係が崩れて、兼続は日向の伊東氏と結んで対立する。そして同年、侵攻してきた島津軍を逆に打ち破り、貴久の弟・島津忠将を討ち取って大勝した。このとき、兼続は妻に離縁を迫ったが、妻は応じなかったという。
1562年には志布志郡を落とし、肝付氏の最大領土を形成した。しかし1566年、島津氏の大反攻を受けて居城である高山城を落とされると、兼続は隠居城の志布志付近で自殺した。但し、肝付氏側の史料には「兼続が自殺した」と明言した物はなく、自殺を否定する説も有力である。
兼続は武勇に優れた名将であったが、隣国に島津氏という強大国を持ったことが不運であったと言われている。