聖宗 (遼)
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聖宗(せいそう、971年-1031年)は、遼の第6代皇帝。第5代皇帝・景宗の子。名は文殊奴、耶律隆緒(在位:982年-1031年)。
12歳の若年で即位したため、治世前半は母太后・承天皇太后や父時代からの家臣団の補佐を受けて政治を取り仕切った。30代頃から親政を開始する。智勇兼備の名君で、東においては女真族や高麗を、西方にわたっては西夏と手を結んでウイグル人の西域諸国を服従させたのである。
1004年に入ると、自ら大軍を率いて親征を行なって北宋領の黄河河畔に侵攻(現在の河北省)する。これに対して宋の皇帝・真宗がこれを自ら軍を率いて迎撃したため、両軍は黄河を挟んで対峙した。しかし、両軍睨みあいのままで決着が着かなかったため、同年に講和条約(澶淵の盟)を結んで撤退した。これにより、宋と遼は兄弟関係となり、宋が遼に毎年の貢物を差し出すこととなったのである。
治世後半においては国内の内政・軍事の組織固めに尽力し、遼の中央集権化を推し進めた。これにより、遼の全盛期が築かれたのである。1031年、61歳で死去し、後を子の興宗が継いだ。墓地は慶州近郊にある。
聖宗の中央集権化により、遼はその後を継いだ興宗、そして道宗の時代まで全盛期が続いたのである。
先代: 景宗 |
遼 | 次代: 興宗 |