竹田宮
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竹田宮(たけだのみや)は、明治後期に北白川宮能久親王の王子、恒久(つねひさ)王が創設した宮家である。
恒久王は、能久親王の第1王子として、1882年(明治15年)に誕生。 1906年(明治39年)に明治天皇より竹田宮(京都市伏見区の地名に由来)の宮号を賜る。 1908年(明治41年)に明治天皇の皇女・昌子内親王と結婚した。 恒久王は、陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業後、騎兵将校の道を歩み陸軍騎兵大佐を経て、1920年(大正8年)陸軍少将に進むが、38歳で死去。 昌子妃との間に、恒徳(つねよし)王、佐野常光伯爵夫人となった禮子(あやこ)女王をもうけた。
2代・恒徳王は、1909年(明治42年)に誕生。 1919年(大正8年)に父の死去により、わずか10歳で宮家を相続した。 1934年(昭和9年)に三条公輝公爵の女子・光子と結婚。 父宮の遺志を継いで、陸軍に進む。陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業。終戦時は陸軍中佐。陸軍騎兵学校の教官をつとめ、太平洋戦争時には、大本営参謀として、ガダルカナル作戦に参加した。 皇族出身の軍人・参謀では出色の才能を持ち、軍首脳部を動かして、1万人の将兵の撤退に尽力した。 戦後の1947年(昭和22年)に皇籍離脱。 東京芝高輪の宮家本邸が空襲に遭わなかったため、土地の一部を売却して竹田編機という編物機械会社を設立し、事業に着手するが、失敗。その後、陸軍士官学校時代にスケートを趣味としていたことから、日本スケート連盟会長に就任する。これが機縁となって、「スポーツの宮様」として各種のスポーツ振興に取り組むこととなる。体協専務理事、オリンピック東京大会組織委員長、国際オリンピック委員会(IOC)委員を歴任し、国際スポーツ界においても「プリンス・タケダ」として知られた。 1992年(平成4年)、82歳で死去した。
恒徳王には、恒正、恒治、恒和、素子、紀子の3男2女がいる。三男の竹田恒和(1947年生)は、父と同じく馬術連盟で活躍。日本オリンピック委員会(JOC)会長である。恒和の子竹田恒泰(1975年生)は旧皇族の立場から皇位継承問題に関する発言を行っている。
芝高輪の宮家本邸は、通商産業大臣官邸に使用された後、西武鉄道に売却され、現在では、高輪プリンスホテルとなっている。