竹中重門
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竹中 重門(たけなか しげかど、天正元年(1573年) - 寛永8年10月9日(1631年11月2日))は安土桃山時代から江戸時代の武将である。父は竹中重治(竹中半兵衛)、母は安藤守就の娘。妻は加藤光泰女。子に竹中重常、竹中重次。幼名は吉助。
父が死去すると一族の重利に後見される。羽柴秀吉(豊臣秀吉)の家臣として、1584年の小牧・長久手の戦い、小田原合戦などに従軍する。朝鮮出兵である文禄の役では名護屋城に駐屯、慶長の役では軍目付として朝鮮にわたった。
関ヶ原の役では当初西軍に属して大山城の石川氏を援助するが、井伊直政の仲立ちにより東軍に加わる。山内一豊らにならい菩提山城を差し出した。黒田長政軍に合流して最激戦地で奮戦。そして九月一九日には伊吹山中で、西軍の有力武将小西行長を捕らえる功を挙げ、家康から感状を得る。関ヶ原の地が竹中氏の領地であった事などから戦没者の供養料として1千石の米を下賜され、また、従来どうり美濃岩出山6千石を安堵される。石高から、身分は、旗本ながら交代寄合として、参勤交代を命じられた。大坂の役でも戦い、二条城の普請も行う。江戸において59歳で死去。
林羅山に師事し文筆にも優れており、死の間際の寛永8年には豊臣秀吉の伝記、『豊鑑』を著した。
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竹中氏