突撃砲
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突撃砲(とつげきほう、独:Sturmgeschütz)とは、ドイツ国防軍によって歩兵支援用につくられた自走砲の一種である。対戦車兵器として駆逐戦車的意味合いも持つ戦闘車両。全高が人の高さ以内に納まる自走砲の開発が1936年に命令され、開発された。III号戦車、IV号戦車の車台を用いたIII号突撃砲、IV号突撃砲が著名。 配備された部隊の兵種に依存する書類上の分類であり、同様の物には駆逐戦車や日本軍の砲戦車がある。
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[編集] 前史 第一次世界大戦
第一次世界大戦に於ける塹壕戦では敵のトーチカを破壊することは(接近しての手榴弾投擲を除けば)困難であった。長距離砲による破壊は弾道精度、測距精度の問題で非効率的であり、大砲自体の前線進出が望まれていた。しかし大砲の前線進出には砲の重量、機動性の問題があった。このために、歩兵支援のための機動性を持ち近接支援を行うことができる砲として、自走砲や戦車の研究が行われることとなった。
[編集] 突撃砲の開発
こうした経験から敗戦後、ドイツ(ワイマール共和国)は突撃砲を開発した。当初は車台の上に近接支援用の砲をオープントップ式に搭載するのみで砲兵を守る装甲板はなく、銃砲弾飛び交う前線で扱うのに適しているとは言い難かった。その為どんどん装甲が追加され、ついには完全な密閉戦闘室を持つに至った。これが突撃砲である。
このような開発の経緯から、運用する兵科としては、戦車部隊ではなく、砲兵部隊となっている。 1936年に出された開発命令により3号戦車をベースとした車両に短砲身75mm砲 (7.5cm StuK37 L/24) を用いた歩兵支援用の自走砲が開発された。これがIII号突撃砲として採用された。
[編集] 実戦での活躍と役割の変化
実戦で突撃砲は開発コンセプト通りの活躍を見せた。電撃戦の各場面において、主に歩兵戦闘の支援を行い、敵勢力の重火器制圧に効果を挙げた。
1941年、バルバロッサ作戦(ソ連侵攻作戦)を発動し、ソ連に侵攻したドイツ軍は圧倒的な物量を誇るソ連軍に直面した。手持ちの戦車が少ない分、突撃砲が対戦車戦闘に駆り出される場面が増えた。そして車高が低く、待ち伏せに適していた突撃砲は対戦車戦闘にも活躍した。
後にドイツ軍の戦車エースとなり、「世界一有名な戦車乗り」であるミヒャエル・ヴィットマンも独ソ戦初期に3号突撃砲B型1台で16台(諸説あり)のソ連軍戦車T-26を迎撃、6~7台を破壊したエピソードを持つ。
ソ連軍の強力な戦車の脅威に直面し、強力な対戦車兵器を必要としたドイツ軍は、歩兵支援用の短砲身の砲を中心としていた突撃砲に対し、長砲身75mm砲 (7.5cm StuK40 L/43 及び L/48) を装備して対戦車兵器として運用した。ここに於いて突撃砲の意味合いは決定的に変わり、駆逐戦車の意味合いが増加した。
回転砲塔を持たないため、同一車体では戦車よりも大型の砲を積むことが可能であった。また、同じ理由で戦車に比べて生産性が高い突撃砲は、物量で勝るソビエト軍に対して一台でも多くの対戦車兵器が必要であったドイツ軍にとってなくてはならない兵器となる。
また、突撃砲が対戦車兵器に変貌したことに伴い、従来の歩兵支援任務を担う車輌として 10.5cm StuH42 L/28 榴弾砲を搭載したものが 10.5cm Sturmhaubitze 42 (42式突撃榴弾砲又は突撃榴弾砲42型)として生産された。
突撃砲を生産していたアルケット社の工場が爆撃により操業停止に追い込まれると、ドイツは IV号戦車の車台を用いた IV号突撃砲 (Sturmgeschütz IV) を製造した。IV号突撃砲の生産開始に伴い、単に「突撃砲」と呼ばれていた車輌は III号突撃砲(Sturmgeschütz III) と呼ばれるようになった。
どちらも終戦まで連合軍相手に歩兵支援、対戦車戦闘で活躍した。ドイツ軍歩兵をして「戦車5台より突撃砲1台を」と言わしめた。
[編集] 参考文献
- フランツ・クロヴスキー/ゴットフリート・トルナウ著 高橋慶史訳,「突撃砲兵」(上・下巻), 大日本絵画
[編集] 関連項目
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