稲葉雍通
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稲葉 雍通(いなば てるみち、安永5年5月8日(1776年6月23日) - 弘化4年9月18日(1847年10月26日))は、豊後臼杵藩の第11代藩主。父は第10代藩主・稲葉弘通(雍通は次男)。母は牧野貞長の娘。正室は有馬豊貴の娘。官位は従五位下。豊後守。伊予守。下総守。
1776年5月8日生まれ。幼名は園江、虎次郎。1800年9月10日、父の隠居により家督を継いだ。教育に力を注いで、武術稽古堂や学問所を創設した。さらに藩財政再建のために倹約令を出したが、1812年12月に百姓一揆が起こり、勘定方を罷免させて百姓の要望を聞き入れるしかなかった。1820年5月6日、子の稲葉尊通に家督を譲って隠居したが、実権はなおも掌握した。また、翌年に尊通が早世したため、三男の稲葉幾通に家督を継がせて、雍通はその後見人としてなおも藩政を主導した。
しかし天保年間に入ると、藩の借金が26万両にもふくれあがったため、1831年11月から村瀬通吉を登用して、倹約や殖産興業政策などの藩財政改革を行なって、成功を収めた。1843年に幾通も自身に先立って早世したため、孫の稲葉観通を擁立して、死ぬまで藩政を取り仕切っている。1847年9月18日、72歳で死去した。墓所:東京都港区高輪の東禅寺。