稲葉弘通
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稲葉 弘通(いなば ひろみち、宝暦3年(1753年)10月 - 文政元年10月28日(1818年11月26日))は、豊後臼杵藩の第10代藩主。父は第9代藩主・稲葉泰通(弘通は長男)。母は側室と言われている。正室は牧野貞長の娘。官位は従五位下。能登守。丹波守。
1753年10月生まれ。幼名は熊次郎。弘通には家督相続時に複雑な事情がある。実は弘通は長男であったが、母が側室であった。それに対して父の泰通は正室との間に次男・稲葉副通をもうけていた。このため、父の泰通は弘通より副通に後を継がせようと考えていた。そして1768年7月2日に父が死去した後、家督は副通が継ぐこととなったのである。ところが副通は将軍・徳川家治に拝謁することなく1769年6月に16歳の若さで夭折してしまった。このため、藩の重役たちは慌てて兄の弘通が父・泰通が死去した後に家督を継いだということにして将軍と拝謁させることで、改易を免れたのである。このため、副通は臼杵藩の歴代藩主として数えられていない。
藩政においては、藩財政窮乏化のために借上を行ない、さらに御用金を商人などに課すことで再建を図ったが、天明の飢饉により藩内が大被害を受け、さらに幕命によって美濃・伊勢の河川普請手伝いに駆り出されてその出費が著しかったため、効果はほとんどなかった。1800年9月10日、家督を次男の稲葉雍通に譲って隠居する。1811年、剃髪して伊賀入道と号した。
1818年10月28日、66歳で死去した。墓所:東京都港区高輪の東禅寺。