石出帯刀
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石出帯刀(いしで たてわき)は、江戸幕府小伝馬町牢屋敷長官である囚獄の世襲名。
初代の石出帯刀は、当初大御番衆を勤めていたが、徳川家康の江戸入府の折り、罪人を預けられ、以来その職を勤めるようになった。石出家から出された『由緒書』によると、三河で家康に仕えた当時は「本多図書常政」と称し、後に石出姓を名乗ったとしている。石出掃部介吉胤家の『由緒』には、石出慶胤とある。実際には、現在の千葉市若葉区中野町千葉中の千葉氏支族石出氏が、その出自である。慶長18年(1613年)9月3日没。法名は善慶院殿長応日久。台東区元浅草に現存する、法慶山善慶寺の開基は、初代帯刀である。なお、『千葉縣海上郡誌』に、三崎庄佐貫城々主片岡常春の将として、石出帯刀五郎昌明の名がみられる。また、『天正十八年千葉家落城両総城々』という文書に、「石出城 石出帯刀」とある。
歴代の石出帯刀のうちで最も高名なのが、石出吉深(号を常軒。1615年 - 1689年)である。囚獄としては、明暦3年の大火(振袖火事)に際して、収監者を火災から救う為に、独断で「切り放ち」を行なったことで知られている。これは後に幕閣の追認するところとなり、慣例化され、さらには現行の監獄法にまで引き継がれている。また吉深は歌人としても知られており、当時の江戸の四大連歌師の一人に挙げられている。歌集には、『追善千句』『明暦二年常軒五百韻注』などがある。著作の一つ『所歴日記』は、江戸時代初期の代表的紀行文の一つに数えられている。国学者として、廣田坦斎・山鹿素行から忌部神道を伝授され、これを垂加神道の創始者山崎闇斎に伝えている。吉深が著した『源氏物語』の注釈書『窺原抄』について、北村季吟の『湖月抄』に匹敵すると評する国文学者もいる。また本邦のみならず中国の有職故実にも通じていたことが、知られている。
足立区千住曙町所在千葉山西光院には、吉深以下三代の墓碑と、吉深の実子で後に囚獄を世襲した師深が建立した、吉深の彰徳碑「日念碑」が残されている。「日念碑」によると、吉深は千葉介常胤の子孫で帯刀家に養子に入った。三田村鳶魚はその出自について、千住掃部宿石出氏の次男佐兵衛とし、玉林晴朗は石出図書常政の孫としている。
元禄2年3月2日没。法名正定院了修日念。善慶寺に埋葬されたが、後に西光院に改葬された。江戸時代初期の代表的文化人といってよい。