琴ヶ濱貞雄
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琴ヶ濵貞雄(ことがはま さだお、1927年10月10日 - 1981年6月7日)は、宮崎県生まれ、香川県三豊郡(現観音寺市)出身の大相撲力士。本名・宇草貞雄。二所ノ関部屋のち佐渡ヶ嶽部屋所属。最高位は大関。
幼い頃から大柄な体格で17歳の時には身長169cmに達した。高等小学校を卒業すると昭和19年9月に海軍に志願、その体格から上官に見出され海軍相撲に参加することになった。敗戦により軍が解散すると故郷に帰ったが食うに困らないとの理由で力士になろうと思い、琴錦を紹介してもらい昭和20年11月場所本名の宇草で初土俵を踏む。
琴ヶ濵の四股名は琴錦と海岸にある観音寺にちなんだ。
素質には恵まれなかったが大変な稽古熱心で地力をつけ、翌年入門した若ノ花との稽古の激しさは今でも当時を知る人の間で語り継がれている。いつまでも軽いままだったのも稽古し過ぎるせいだと評された。後によき稽古相手であると同時に親友でもある若乃花が横綱に昇進すると太刀持を勤めた。
昭和21年に左足を負傷、これが琴ヶ濵の運命を決めた。左足を庇い浮かせぎみにして相撲をとるようになったが、これを有効に利用する方法を考え内掛けを使うようになった。兄弟子である玉櫻の指導により廻しを切る稽古も行なって威力を増したが、あまりの熱心さに負傷して便所に行けなくなることさえあった。腰を使って廻しを切り、相手が再度取ろうと手を伸ばしたところで左足を飛ばし鎌で刈り払うがことく決める内掛けの威力から内掛けといったら琴ヶ濵、琴ヶ濵といったら内掛けといわれるようになった。
昭和24年10月新十両、昭和25年5月新入幕。昭和30年から上位で活躍するようになり「儂は内掛けなどくらわん」と豪語した横綱栃錦に内掛けを決めた際に栃錦は内掛け封印を宣言、2度と使わなかった。また北ノ洋が「内掛けが来たら外掛けでひっくり返してやる」と作戦を立てた際にも内掛けで倒すなど猛威を振るった。小結だった昭和32年1月は休場して3月は8枚目まで落ちたがそれ以降好調が続き、昭和33年3月に13勝を挙げ大関朝潮との優勝決定戦に出場、敗れはしたが大関に昇進した。
横綱昇進を期待されたが大関昇進後は病や負傷に苦しみ果たせなかった。公式に記録されているものだけでも数多くあるが、特に右足親指を負傷してからは不振続きで当時の「大関は3場所連続の負越で陥落する」という特権的な制度を活用しているとまで言われる程の不振ぶりだった。軸足となる右足に力が入らなくては琴ヶ濵最大の武器である左内掛は威力を発揮できなくなった。最初の角番で迎えた昭和36年1月場所千秋楽、大関柏戸と12勝2敗同士で勝った方が優勝の相星決戦(敗退)をしたのが最後の光だった。名大関とも呼ばれる反面この晩年の不調が評価を下げたとも言われる。昭和37年11月の全休を最後に引退、年寄尾車を襲名。
稽古熱心ぶりは弟弟子から恐れられたが厳しい稽古の中での指導は決して間違ってはおらず、後の横綱琴櫻なども琴ヶ濵に鍛えられた。引退後は琴櫻のよき相談相手でもあり佐渡ヶ嶽(琴錦)が亡くなって部屋を琴櫻が継承してからも補佐し続けたが、昭和56年6月7日、53歳の若さで亡くなった。
妻は磐石の娘。息子は琴宇草のち父と同じ琴ヶ濵を名乗って幕下まで進んだ。